「ホテルローヤル」 

作家の優しい眼差し

 「ホテルローヤル」は直木賞受賞の話題作で、読んでみようと、図書館で借りようとしたら、なんとすごい数の予約待ちでした。では、順番を待つ間、この作家の他の本を読んでみようと思い、何冊か読みました。いずれも、読みやすく引き込まれました。読んだ本の全部が、北海道の道南、釧路が主な舞台でした。この最果ての地に住む人にも、流れついた人にも、共通の匂いのようなものを感じました。それは、北の大地の匂いとこの桜木紫乃という作家の眼差しなのかもしれません。
 そもそもこの作家の本を読んでみようと思ったのは、雑誌などでみた良妻賢母のような柔和な顔と、ラブホテルというギャップに興味をもったのが始まりでした。

 結局は、中古の文庫本に出会い購入して読みました。
今まで読んだ著者の何冊かの本以上には、新鮮ではありませんでしたが、面白い作品でした。まず、現代から過去にさかのぼって語られているのは、ホテルローヤルというラブホテルの歴史で、それが解き明かされていくような展開です。前回では端役だった人が、今回は主役になっているという描き方は、どの人も人生の主役なんだ、自分のストーリーをもつということを改めて感じさせます。

「星を見ていた」の山田ミコは忘れがたい人物です。他の本にも、このような健気に生きる女性が登場しました。「凍原」では、留萌に引き上げた鈴木克子、「蛇行する月」では、駆け落ちした順子、傍からみて不幸な女性が、ひたむきに生きていく姿は星のように美しく強く光っています。こういう女性への著者の眼差しは、素晴らしいと思いました。

 桜木紫乃氏が受賞したのは芥川賞ではなく直木賞だったけと、純文学を感じさせるものがあるので途中から前者だと思っていました。

この本で、冬の間どっぷりはまった桜木紫乃ワールドは、いったん終わりにします。快くも冬の重い疲れと哀愁から離れます。いい冬の夜を過ごしました。もう春の足音が聞こえ、新しい季節がやってきます。

   『凍原』

背筋がゾクゾクしました

桜木紫乃さんのミステリーです。
釧路の湿原で男性の他殺死体が見つかりました。被害者はカラーコンタクトをしていました。その下には青い目……。
犯人はだれか。なぜ殺されなければならなかったのか。青い目が物語るのは…。

私は、すぐにのめり込み、寝不足も恐れず読みふけりました。絶えず胸をゾクゾクさせながら。
しかし、読む進むうち、いつのまにかゾクゾクするのが胸より背筋になったのです。背筋にゾクッとする怖さを感じました。

それは、戦争という悲劇の時代に翻弄された人の姿が、リアルに伝わってきたからです。

釧路、樺太、留萌、小樽、室蘭…と真相を求めての捜査は、北海道に流れ着いた人たちの過去が浮かび上がる、言い換えれば蓋をした過去を暴くことでもありました。

どの人も敗戦の激動の時代を必死でひたすら生き抜いてきました。過去と現在がつながり、事件は解決します。後に残ったのは癒されることのない哀しみです。
ミステリーとはいえ、大きな人間ドラマです。手ごたえがありました。

樺太から引き上げ留萌にたどりつき、懸命に生きた鈴木克子やその従妹のつや子が愛おしいです。
それぞれの無垢でひたむきな横顔が見えるようです。
著者の力量に感服でした。

「蛇行する月」

女友達が恋しくなりました

 桜木紫乃さんの本は、冬の寝床で読むのにぴったりの本です。
この冬は、風が強く、雲が吹き飛ばされた夜空に、月がそっと浮かんでいました。
夜毎、月は欠けていき、眉月になりました。細くなるにつれて月の光が強く感じたのは、この本のせいでしょうか。

 道東の高校時代の図書部だった女友達のそれぞれの話です。
道東とは、その名のとおり北海道の東ですが、改めて地図を見てみました。
紋別、十勝、釧路、根室地方を指し、北海道のなかでは広い面積を占めるものの、人口は少ないようです。
地図を見ていると、登場する一人一人の顔が立ち上がってきました。

「だれでも、その人の一生は小説になる」と、だれかから聞いたことばを思い出していました。
生きるということは、ドラマをつくること。そしてだれもが小説になるということ。生きるということは、、蛇行しながら広い世界に向かっている、本当にそうだなと思いました。

 読みながら、自分の学生時代やかつての職場の女友達が浮かんできました。
久しぶりに会えば、すぐ昔の友達同士に戻り、お互いの近況を話したり聞いたりします。そんなとき、大きなドラマがさらっとでてきて、びっくりして相手の顔をあらためて見てしまうことがあります。「…大変だったねぇ…」「そうだったんだ…」と。
どの人も人生のドラマの主人公なんだと思わずにいられません。小説にならない人はいないということです。

 登場する人たちが、身近の人に思われ、身にしみました。
前回の本もそうでしたが、構成が巧く、人物に奥行が感じられてよかったです。

 潮風のおくりもの 掛川恭子訳

ことばって、意味がわからなくても音でつたわるものがある

 やさしいまなざしにあふれた本です。島の最後の避暑客が去るとき、埠頭では、アコーディオン、バイオリン、サキソフォン、パグパイプを演奏して見送ります。
ある夏が終わり、潮風のおくりもののように、ラーキンの家に赤ちゃんのソフィーがやってきます。 
 
 おとうさん、おかあさん、おばあちゃん、ラーキンはそれぞれがせいいっぱい、ソフィーに愛情を注ぎます。

 島には静けさが戻り、秋のむこうに長い冬がやってきます。
変化のない孤独な島の冬。

おとうさんは、タップをおどり、
おかあさんは、絵をかきます。
少女は、この冬、ことばにであいます…。

  「ソフィーにはわからないよ。」
   ラーキンはいいました。

  「かわらなくてもいいのよ。
   ことばがもっている音がすきなんだから。」
   バードおばあちゃんがいいました。

  「ことばには命があるということを、しっていたかい?ことばには小さな祈りがあって、きえるまえに、音とおなじくらいのスピードで、空中をつたわっていく。小石を池のまんなかめがけてなげると、波紋がひろがるみたいに。」


 それから、少女は、孤独のなかで詩にであいます。

  「詩には、この世のなかのあらゆるものがつめこまれています。わたしがしなくてはならないのは、よく見て、よく耳をすますことです。読んでいるあいだじゅうずっと」


 ことばのひびき、風、雲のながれ、空のかがやき、音楽、木々のゆらめき、まなざし、「愛された思いで」は、残ります。はるか未来までずっと。命をつくるものなのかもしれません。

かたわらの愛猫にも、やさしいことばで語りかけたくなりました。
ことば、大切にしたいと思いました。
図書館で借りた本ですが、持っていたいと思い購入しました。

 『私の好きな孤独』

必要なときに語りかけてくれます

長田さんの本はいつも手の届くところに置いてあります。
今朝、ふと手に取りました。ランダムに開いて、読みました。

今日は、「伯父さん」というページでした。

長田さんの伯父さんのお話です。
たくさんの「ちょっとしたこと」を伯父さんは、長田さんにおしえ、長田さんは、それを注意深く覚えてゆくことの大事さを知った、とあります。

そのなかで忘れたくないことに、一人でコーヒー屋にはいって一杯のコーヒーを飲む時間を一日にもたねばならないということ、といっています。

感じるものがありました。

一人で喫茶店にはいり珈琲を飲むという時間が、ここしばらく無くなっていました。この時間が自分にとっていい時間だったのに。

移り住んで気軽に入れる喫茶店がなくなった、というのが理由でしたが…、いや、まてよ、あの珈琲店があるではないか、と気づきました。

けやきの木とかつらの木に囲まれた、笑顔で丁寧に豆を挽いていれてくれる喫茶店。「伯父さん」のように自転車で行ける距離。

こんなちょっとしたことも埋もれてしまっていたのだなと、ここ数年を振りかえりました。

この「伯父さん」は前にも何度か読みましたが、今回は初めて読んだ新鮮さがありました。

『星々たち』

哀しい星々の物語に浸りました

 
 9つの短編が収められていて、1つ1つが独立していますが、全体を通して、塚本千春の13歳から40半ばまでの半生が描かれています。その前後に母咲子、娘やや子が描かれていますので女三代記ともいえます。そしてこの3人と関りのある人々の人生をも浮き彫りにしています。

 外ではオリオン座がくっきりと輝く真冬の夜に読みました。

哀しい物語です。情景やこころの動きが伝わって、切なくなります。それが最後の「やや子」の前まで通奏低音のように流れていました。「やや子」ではその調べは消えました。平成への時代の変化もあるのかもしれません。代々続く魂の放浪は終わるのでしょうか。

 薄幸の星の下に生まれた塚本千春ですが、本人はそう思っていません。周囲との比較などとは無関係に、ただただ自分の星を受け入れて生きてきました。

 やや子もそうです。自分の来し方をとらえたことばがいくつかでてきます。
「もともと自分は、名字で家柄や縦横の繋がりを測る生活をしてこなかった」
「始まりも終わりにも、過剰な期待をしない。する習慣がない。肉親との縁が薄いとは、そういうことだ。誰のせいでもない」
 
それでも、いつも冷めているやや子に、ある出会いがあり、明るい兆しが感じられてうれしくなりました。

  図書館司書のやや子は、元編集者が書いた小説「星々たち」に、それが自分の母親の半生だとは知らず思いをはせるのでした。

   「星がどれも等しく、それぞれの場所で光る。
    いくつかは流れ、そしていくつかは消えていく。
    消えた星にも、輝き続けた日々がある。  
    誰も彼も、命ある星だった、
    夜空に瞬く、名もない星々だったー」

 冬の夜空の星一つ一つが強い光を放っているように見えました。
そして、心憎いほどかっこいい構成です。
また桜木紫乃さんの本を読んでみたいと思いました。桜木紫乃ワールドにはまったようです。

『ターシャ・チューダーの手帳2017』

数少ない大のお気に入り


これは、本ではありません。手帳です。
2年前から日記帳として愛用しています。
近くの書店やステーショナリー店にはおいてなく、今年の分は手に入れ損ねていました。
日記帳代わりになりそうなノートが手元にいくつかあったので、今年はこれを使おうと思っていました。

夫との何気ない会話で、そのことを話したら、本当に気に入ったものを使った方がいいよと、言われました。
そうだと思い、ネットで注文しすぐ届けてもらいました。

大きさや表紙の硬さ、書くスペースが手頃で書きやすく、何よりも好きなターシャさんの世界に、いっとき浸れるのが楽しみの手帳だったと改めて気づきました。

この日記帳には、一日の楽しかったことだけしか書きません。楽しかったことばかり浮かんでくるからです。ターシャマジックかも。

毎日の小さな楽しみの積み重ねが、いつか大きな喜びにつながるかもしれません。
現に、ターシャさんの写真や言葉やイラストを目にすると、花の球根を植えたり種を蒔いたりしたくてうずうずしています。
そして、日常の小さな楽しみが次の楽しみを産むような感じがします。

お気に入りはたくさんあっても、大のお気に入りは多くはありません。簡単にあきらめて、ターシャマジックの恩恵を逃すところでした。

 『起終点駅 ターミナル』

雪と潮風の匂い、澄んだ余韻

 映画を観て、原作を読んでみたいと思い、本を手にしました。桜木紫乃さんの本は初めてでした。まず、長編だと思っていたので短編であったことにおどろきました。1冊にこの他5つの短編おさめられています。
 本の表紙の絵は、内容にこの絵のような印象はないので違和感がありました。

 映画は、佐藤浩市、本田翼(私には初めての役者さんでしたが)、尾野真千子の花のある役者さんたちがそろっていました。いい映画でした。原作と違うところがいくつかありました。主人公鷲田完治は、映画では、最後、息子の結婚式には出席することになり、終点駅が、希望に向かう始発駅になるのを感じさせます。しかし原作では、出席せずおだやかな諦念の気持ちに包まれながらも、静かな再生の余韻が残りました。どちらもいいです。

 1度目に読んだときは、映画の影響で、特に印象的だった佐藤浩市の表情がどうしても本の中に現れてきてしまいました。
 2度目に読んで、映画の印象が少し払拭されました。
 完治は、冴子と再会したことで自分が立っている位置がはっきりと見えたとあります。裁判官としての仕事、妻と息子との家庭生活、順調に進んでいるようだが、言いようのない焦燥感を感じていると。
 そして、冴子と再び関係をもった時、自分が妙に安堵し、今まで手にしてきた幸福が自分に過ぎたるものだったことを自覚します。
 そして、完治は今までの幸福を捨てることを決意するのですが…。
人の感情の深いところは複雑です。

 その後、冴子の死から長い年月が過ぎ、最果ての地で完治は、人との関わりを避け、国選弁護士としてひっそりと暮らしています。
そんな完治に、冴子の面影をもった敦子との出会いから、変化が訪れます。

 人の心の影を深く静かに描いていて、桜木紫乃氏の本は、澄んだ余韻があります。それは雪と潮風の匂いをともなって細くいつまでも続きます。

 他に本に収められたなかで、「潮風の家」が心に残りました。悲しい物語ですが、85歳のたみ子の明るさと逞しさがまぶしいです。たみ子も千鶴子も翻弄された自分の運命に、気持ちの清算をしてひっそりと健気に生きています。
 千鶴子にテレビを送ってもらったたみ子に、よかったねと、涙ぐんでしまいました。

 『まいにち食べたい“ごはんのような”クッキーとビスケットの本』 なかしましほ

美味しい、体にやさしい、めんどうでない、この三つがそろっています

 夫が、病気を患ってから、食べるものに気をつかうようになりました。
コーヒー、紅茶が好きな私たちに欠かせないのが、クッキーやビスケットです。何よりもお茶でくつろぐ時間が好きなのです。
習慣化すると、少しのお菓子でも気になります。バターや生クリームの摂り過ぎは恐いです。
 何かないかなあと探したところ、本屋さんで見つけました。帯に「第1回料理レシピ本お菓子部門大賞受賞」と書いてありました。

 基本の材料は、いたってシンプル。粉、油、砂糖だけ。そして、普段家で愛用している、国内産の薄力粉、全粒粉、菜種油、メープルシロップが基本です。それに応用として、ナッツ、ドライフルーツ、オートミルなどです。体にやさしく、家にあるものなので、すぐ作りました。
 作り方もシンプル。粉をふるいにかけたり、寝かせたりしません。ここが気に入りました。この2つがないだけで、ずいぶん気が楽です。
 粉に油をすり合わせてシロップを混ぜて、形をつくって焼きあげる。
 とても美味しいです。夫も香ばしいと気に入ってよくリクエストします。お客さんがきたときもあっというまになくなります。
もっぱら、基本のクッキーで満足ですが、材料があるときに、ココアとマーマレードのクッキー、ごまクッキーなども作ります。

 美味しい、体にやさしい、めんどうでない、この三つがそろっています。いい本を見つけたと思います。著者のなかしまさんも体調を崩していたときに、食べられるおやつを探して、これを作ったそうです。

 バターや生クリームも好きなので、外でお茶を飲むときに味わっています。
ゆったりとお茶をのんで過ごすひとときは、人生のいい時間。大切にしたいです。

「薄情」

わたしの薄情

 私は絲山秋子を信頼しています。絲山氏の「袋小路の男」の女主人公が「彼は作家です」と言い切る心情と同じだと思っています。絲山氏の本をもっと読んでいけば、その理由もはっきりするかもしれません。

 いつものように、長くはない文章の間に、「ん?」と立ち止まり、「こういうことか」と思いながら、時にはうなりながら、いつしか絲山ワールドにはまりました。普段の生活で無意識にやり過ごしている感覚を、浮かび上がらせてくれます。そしてそういうことかと気づいたことで生きやすくなります。

 この本のなかでは、「地元の人間」「ヨソ者」「出戻った人間」がでてきます。人や社会は階層や区別や壁を作ってしまいます。
主人公の宇田川は、大学は東京で地元群馬に出戻った人間です。神主を継ぐということが決まっており、今は他者との深入りを避けてなんとなく暮らしています。深入りはしないけど、しっかりと相手との距離ははかっています。今はこういう人が多いのではないかと思います。
ヨソ者や出戻った人間との関わりの中で、自分を見つめていく物語です。

 この本を読みながら、自分のことを思いました。私は地方に移住してきたヨソ者です。地元の人とくっきりと区別があります。自分がヨソ者だと思っているし、地元の人もそう接します。これからそれがどう変化していくのだろうかとちょっと楽しみでもあります。

また、高校まで過ごした故郷に対する思いは複雑です。故郷を離れた自分が薄情に思えます。そのときは故郷=閉塞感でした。
しかし、久しぶりに訪れた故郷は様変わりして、自分がヨソ者になったという思いをいだきます。故郷が薄情に思えました。

自分の感じた薄情は、宇田川の独白と同じ、一言でいえばくだらなく、どうでもいいこと。でもそう感じるのも愛情の裏返しかな、と思えました。愛情にも表と裏があるようです。

読み進みながら、宇田川や絲山氏のドライブの同乗者になったようで、走り抜けたリアル感があり、心地よさが残りました。それは生きやすさでもあります。このリアル感は、絲山秋子氏の特徴だと思います。好きな理由の一つでもあります。