『コルシア書店の仲間たち』 

熟成した深い味わい

 彗星のように現れた、といっても過言ではありません。ある時期突然、どこの本屋さんに行っても、著者の本が、目立つところに山積みになって置かれるようになりました。初めて目にする名前に、誰だろうと思っていました。それから次々と新しい本が刊行され、しばらく「須賀敦子」ブームになりました。
 最初に手にとったのは、仕事で来た新宿の帰りに寄った書店でした。電車で読もうと、エッセイ風の薄いこの文庫本を買いました。
いざ読み始めると、初めて味わう独特の世界に引きこまれました。

 読み進んでも、このコルシア書店がどういうところか、キリスト教のことや当時の社会背景も、漠然としかわからなかったのですが、そんなことにお構いなしにぐいぐい惹き込まれました。

 30年前の過去を回想しながらというより、そこに自分を引き戻し、仲間たちとともに、あたかもそこで息づいているかのように語られています。コルシア書店の主なメンバーはもちろんのこと、書店に集う友人、客、パトロンその家族など30人近くが登場します。

 語り口が魅力的です。

「求めていたものにひかりがあたる思いだった。(ダヴィデの)詩のなかのことばを通して質問すると、漠然とした答えのなかに、たしかな感触のある思考の「種」がひそんでいた。」

「むしろ、ラウラの意見というのは、たいていごく平凡で、常識的なものなのに、みなが、夏の日の涼しい風のように、彼女の意見を待つことがあった。」

「私のミラノは、たしかに狭かったけれども、そのなかのどの道も、だれか友人の思い出に、なにかの出来事に、しっかりと結びついている。通りの名を聞いただけで、だれかの笑い声を思い出したり、だれかの泣きそうな顔が目に浮かんだりする。」

「ピーノだけは、少年のようなひたむきさで、ダヴィデをなぐさめることができた。チシャ猫の笑いはこんなだったかもしれない、と思うような、それでいて、ふしぎなやさしさのある笑顔のピーノと目があうと、彼のたましいのかけらが、こっちにくっついてしまいそうな人なつっこさがあった。」
 この本が30年もの時間を経て書かれたというのが、すごいなと思います。それだけ長い時間があったからこそ、仲間たちの物語をこのように語ることができたのだと思います。熟成というのでしょうか。
 それと、著者にとってこのコルシア書店は、本文にさりげなく書かれていますが「生きるエネルギーの大半だった」と。だから深い味わいを感じされてくれるのだと思います。

 仲間たちと出会い、別れ、今はそばにだれもいない、でも、記憶のなかでいつまでも生き生きと生きている、記憶は失ったものではないから。
 最後のほうで、孤独について書かれたところでは、心に沁み、哀しくも心温まるものがありました。
 自分の人生をも顧みさせ希望を与えてくれる本です。大切な本です。
「人生ほど、生きる疲れを癒してくれるものはない」著者訳のサバのことばが目にひきました。