『一本の葦にはあれど』

35年を経て出会いました

この本を地元の図書館で検索して、見つかったときはうれしかった。閉架図書となっていたので、職員から手渡されました。
出版は1981年。そのころの私の勤め先が、著者の加藤勝彦さんとご縁があって、この本を贈っていただきました。その時、手に取ったのが初めての出会いです。脳性小児まひという加藤さんのご自身のことを小説に書かれた本だということ、主人公とおかあさんの描写は心に残っているものの、内容はまったく抜け落ちていました。ただ、重みはずっしりと感じていました。

あれから30年以上も経って、ふとこの本を読んでみたくなり探しました。ずしりと感じた重みを確かめたくなったのです。
すでに絶版になっていました。だいぶ前に、仕事先でいただいていた加藤さんからの年賀状が途切れ、亡くなられたことは知っていました。青いインクで、力強く書かれた字を覚えています。意思の強さを感じさせる字でした。

読むのに時間がかかりました。借り出しを2回延長しました。主人公(著者)の時間の流れはゆっくりで、息遣いが伝わり、それを飲みこむように読みました。

脳性小児麻痺の主人公の木原有一は、個人経営の心身障害児の施設にやっと職員として採用され、5人の障害児を受け持っていました。その子どもたちを、同じ障害をもつからこそ深く理解し、その眼差しは温かくかれらによりそうものでした。ひとりひとりの障害にむきあって、毎日少しずつ訓練を積み重ね、その子の世界を広げていこうとしました。一歩歩くこと、寝ている体を起こすこと、これができていくことは、どれほど世界が大きく開くことになるのか。

不自由な体を目一杯使って、仕事に向き合う木原に、過酷な勤務と職場や社会での無理解、理不尽な差別が容赦なく彼を傷つけます。園長でさえ「障害者のくせに」ということばを投げつけます。
失望や怒りを超えて、木原は、「障害者」ということばに慣らされている自分に、甘えがなかったかと自問します。

組合をめぐっての園長と職員たちとの争いのなかで、木原と園長の対決は圧巻でした。結局は、園長の前に土下座して、学園においてくれるように頼みこむのです。自尊心も恥辱も怒りもすべて抑えて…。働くために。
一本の葦の姿が浮びます。沼地に根をはって、立っている葦、風が吹くとすぐひょろひょろと揺れるが決して折れない葦。
木原は、権力の前にひれ伏しますが、負けたのではありません。働きたいという自分の大きな目的を貫いたのです。木原の働きたいという叫びは、人間らしく生きたいという叫びそのものです。強者と弱者の関係が否応なく浮かびますが、本当の強さとはなんだと突き付けられます。
木原が受け持ちの子どもたちと過ごす時間は、彼の唯一の居場所でした。荒く波立った心が和らぎ、傷ついた心が癒されていくのでした。この場所がなんと輝いてまぶしくうつることか。心が洗われていくようです。

本というものには、出会いがあって、本はそのときをじっと待っていてくれる。だからこの本はなくならないで欲しい。後世まで残り続けることを願ってやみません。本当の力を与えてくれる本だからです。