詩のミューズというのがぴったりの詩人
この詩集が、読売文学賞を受賞したときのことばに、「自分の力を超えるものが、私の手をとり、書かせてくれた。それは詩の女神というより、デーモンのような気がします」とありました。私にとって、高橋順子さんの詩 =(イコール)詩の女神ミューズ、であったから、この言葉には衝撃をうけました。
実際、デーモンと言われたとおり、たじろぐような迫力がありました。
第一章から第二章、そして第三章まで、海や木々、草花の匂いも香りもしません。
降りかかる雨のなかに、静かにたたずむ詩人の姿がありました。
男が強迫神経症になったので
暮しは 水びだしである
この家も 出なければならないのだろうか
だが 今度は ひとりずつだ
大甕よ
結婚の甕よ
しずかに割れておくれ
沈丁花よ
朝までに 枯れておくれ
だが 朝は来るのだろうか
<ふるえながら水を>より
案の定 男が虎になった そのあげく
精神安定剤だ おかげで
いまは猫である
虎のいない家で虎になってもしようがないから
女は猫をかぶったまま
手なずけられた虎猫と
そうめんをすすっている
<虎の家>より
この木のことを
精神病院からの帰り道
休耕田の真ん中に生えている一本の
椎の木の下に坐り
二人でおにぎりを食べた
野漆と耳菜草の名をおぼえた
模型飛行機をとばしている人たちがいた
川で釣りをしている人たちがいた
いつかきっとこの木のことを思い出すだろう
二人ともまだ若かったころ
木下に坐ったことがあった と
高橋順子さんは、自分を救うために詩を書いたと言っておられます。
その詩を読んで、救いを感じているものがいます。
高橋さんは、やっぱり詩のミューズです。