『さむがりやのサンタ』                            レイモンド・ブリッグズ作・絵 すがはらひろくに訳


12月の声がきこえてくると、きまって手にする絵本

 
 カレンダーをめくり、あららもう、今年も2ケ月で終わりなの、来月は12月だ、と思ったあたりからそわそわしてきて、本棚からこの絵本を取り出してみます。

 サンタがさむがりだなんて笑っちゃいます。いっしょにいる黒猫のクロと犬のポチがかわいいですね。クロがサンタさんの首にのってまきついているのもいいです。 サンタさんの食事がおいしそう。ベーコンエッグに、ティーポットでいれたお茶、ミルク、チーズにイギリスパン。バターにジャムもあります。
 しっかり着込んで部屋をあっためて、戸締りもして、トナカイと、さぁ、出発!
途中、ひどい雪、次は雨、「おつぎはなんだい」に「きり!」の一言には、声をだして笑ってしまいます。
 
 「よっこらしょっ、やれやれ」といいながら、煙突をおりる様子やプレゼントを配る姿が、おもしろいです。ひとこまひとこまが、すみずみまで楽しいです。こどもたちの寝息や、あったかい湯気、ストーブのパチパチと燃える音が聞こえてくるようです。

 クリスマスまで、この絵本を何度も手にとってながめ、笑ってはほっこりとあたたまりながら楽しみます。私には、サンタさんがこんなふうにして毎年やってきます。

『 時の雨 』 

詩のミューズというのがぴったりの詩人
 
この詩集が、読売文学賞を受賞したときのことばに、「自分の力を超えるものが、私の手をとり、書かせてくれた。それは詩の女神というより、デーモンのような気がします」とありました。私にとって、高橋順子さんの詩 =(イコール)詩の女神ミューズ、であったから、この言葉には衝撃をうけました。

 実際、デーモンと言われたとおり、たじろぐような迫力がありました。
第一章から第二章、そして第三章まで、海や木々、草花の匂いも香りもしません。
降りかかる雨のなかに、静かにたたずむ詩人の姿がありました。


男が強迫神経症になったので
暮しは 水びだしである
この家も 出なければならないのだろうか
だが 今度は ひとりずつだ
大甕よ
結婚の甕よ
しずかに割れておくれ
沈丁花
朝までに 枯れておくれ
だが 朝は来るのだろうか

        <ふるえながら水を>より


案の定 男が虎になった そのあげく
精神安定剤だ おかげで
いまは猫である
虎のいない家で虎になってもしようがないから
女は猫をかぶったまま
手なずけられた虎猫と
そうめんをすすっている

        <虎の家>より


    この木のことを

精神病院からの帰り道
休耕田の真ん中に生えている一本の
椎の木の下に坐り
二人でおにぎりを食べた
野漆と耳菜草の名をおぼえた
模型飛行機をとばしている人たちがいた
川で釣りをしている人たちがいた

いつかきっとこの木のことを思い出すだろう
二人ともまだ若かったころ
木下に坐ったことがあった と

    
高橋順子さんは、自分を救うために詩を書いたと言っておられます。
その詩を読んで、救いを感じているものがいます。
高橋さんは、やっぱり詩のミューズです。

『「体を温める」とすべての痛みが消える』  坂井学

温めて、温めて、頑固な腱鞘炎が治りました

 手の腱鞘炎は長いつきあいでした。最初は、右手のバネ指で、整形外科に何度も通い、注射を打ってもらっていました。なかなか治らず、観念して中指と薬指の2本を手術しました。

 次は、左手指。また病院で注射を打ってもらいましたが、手術したほうがよさそうですね、と言われました。でも、右手ほど不便じゃなかったので、放っておきました。
 
 そして、今度は、右手首のドケルバン病(狭窄性腱鞘炎)です。手を酷使しているでしょうと言われても、人並みだと思います。体質でしょうか。この右手首は、超不便でした。痛みで字が書けません。荷物も包丁ももてません。
病院で、また注射です。でも今度は、針が腱に命中せず痛みがとれません。いくつかの病院にいきましたが、だめです。 
 
 また…手術か…と、思いかけていたとき、たまたま本屋でこの本に出会いました。帯に「―バネ指など」と書いてあったので、やってみようかなと思い、読んで実行しました。
 
「お湯で温める、いつも小さなカイロで温める、いつも手首にサポーターを巻いて冷やさない、冷たい飲み物を避ける」これだけです。実行して、わりとすぐ痛みがやわらぎ、気がつくと治っていました。1年半の痛みが、徐々にうすらいで消えていました。左手のバネ指もです。日記も手紙も書けるようになり、とても感激しました。これで長年の腱鞘炎とはおさらばです。

 また繰り返さないようにと、温めることが習慣になりました。腰痛や肩こりも湿布ではなく、カイロで温めてています。いい感じです。

『エマおばあちゃん』                                                ウェンディ・ケッセルマン文 バーバラ・クーニー絵 もきかずこ訳

わたしもエマおばあちゃんをめざして

 バーバラ・クーニーの絵が大好きなので、手に取った絵本です。
エマおばあちゃんは、私の理想です。私も70歳を越えたら、自然のなかで、自分の好きなことに夢中になって楽しく暮らしたいです。この「夢中になって」というのがポイントですね。かたわらに、いつもネコ、もいいですね。私にも<かぼちゃのたね>に似たがネコがいます。
 
エマおばちゃんが、すきなのは、かざらないことばかりでした。
とぐちに ふきよせられた ゆきを みたりーーー

のんびりと くつろいで、とおい とおい ふるさとの
ちいさな むらを ゆめみたり。

 エマおばあちゃんと<かぼちゃのたね>が、窓辺に立って、降っている雪を見ている絵が素敵です。二人の表情がいいです。

 エマおばあちゃんが描いた絵はどれも、明るく優しく夢にあふれています。
 バーバラ・クーニーの絵は、細やかで隅から隅までみて、おもしろい発見があります。目や口元や手や背中はもちろん、くつ先、猫のしっぽ、花、雲、お日様にも表情があり、見れば見るほど味わいがあります。

 私もエマおばあちゃんを、少しずつ目指していこうと思っています。明るいピンクの背表紙は、エマおばあちゃんそのもの。いつも本棚からエールを送ってくれます。

『長田 弘 全詩集』 

本を持つということ


 長田弘さんのほぼ全部の詩が収められた詩集です。長田さんが亡くなられる直前に出版されました。

 長田さんの本は、ほとんど持っています。でもこの全詩集も本棚に置いて、いつも目にふれていたいと思いすぐ求めました。白と薄緑色の表紙、カバーをとるとやさしい萌黄色の本。
出版社の方が、この全集ができあがり、長田さんの自宅へ届けに行ったとき、長田さんがこの本を愛おしそうに手にしたと書いてあったのを、どこかで読みました。

 長田さんの詩は、わたしの日常に溶け込んでいます。ふと、詩のフレーズが浮び、詩を読み返したくなる時がよくあります。すぐ本棚から取り出して本を開きます。こういう時間は自分にとってとてもいい時間です。もしこれから先、なにかの事情で、ごく少ない荷物で暮らさなくてはならないことがあっても大丈夫、この全詩集一冊があれば。

 また、本はそこに置いてあるだけで、語りかけてきます。そこにあるだけで安心です。読まなくてもその声に耳をかたむけて、日常を過ごしたいのです。
そういう本をもつことができたのは、幸せだと思います。

『空白の五マイルチベット、ツアンポー峡谷に挑む 』                                  

衝撃的な出会い

 忘れもしません。2010年の真夏の暑い日でした。涼を求めて入った書店で出会いました。「チベット」という文字とちょっとおどろおどろしい表紙が目にふれ、手にとってみたのです。とたん、釘付けです。ふと、これはいつの時代の話だろうと、後ろをみたら、びっくりしました。なんと昨年の話、著者は、早稲田大学探検部OBで、30代前半の青年でした。超びっくりでした。今の時代に冒険、探検……?!! それもひとりで?!!

 すぐ買い求め、その夜は、熱帯夜でしたが、暑さなど感じるすきもなく、冷や汗をかきながら一気に読みました。
この作者がヒマラヤの秘境で生死を彷徨っていた2009年の12月に、自分は何をしていたんだろうと思い出さずにはいられませんでした。師走を迎えて煩雑な仕事に追われていた自分の姿がちっぽけにみえました。

 さっそく、地図を広げたり、グーグルアースを見たりして、「ヤル ツアンポー川は、ヒマラヤ山脈の北側斜面に沿って流れ、その後突然南に屈曲し、ヒマラヤ山脈を切り裂いて横ぎり、インドに向かって大きな落差を急降下、インドではプラマプトラ川と名を変える」を、確認しました。私はグーグルアースを見ただけで、あまりの険しさにビビッてしまいました。

 「このヒマラヤ山脈を切り裂くように大峡谷地帯がある、それが全長500?のツアンポー峡谷を作り出している」角幡氏は、この峡谷の未踏の5マイルを探検し、成し遂げ、2度目の単独探検では峡谷を彷徨って極限状態から生還したのです。

 峡谷の激流にカヌーで挑み、亡くなられた武井義隆さんのお話は涙なしでは読めません。父親が川を見渡せる場所に慰霊碑を立てときに蒔いたコスモスの種が、時を経て咲いていた、それを偶然ご両親がテレビでご覧になられたそうです。この偶然は単なる偶然でしょうか。

 この後、他の本も読みましたが、どれも命がけの探検です。ゴールよりも探検をするという行為に意味があるとはっきり言われています。どういう意味があるのか。そのへんに私は惹きつけられるのだと思います。

 今度は、極夜の北極探検だそうです。単独でGPS無しの天測で。角幡さんが、もって帰る未知の世界の話がとても楽しみです。
 ヒマラヤ山脈を切り裂くようにツアンポー峡谷があるならば、私たちの日常を切り裂くように出現した現代の探検家角幡唯介さん、目が離せません。

『朝の捜し物』   

豊かな感性に、立ち止まってしまいました

昨夜、送ってくれたとき
あなたは 初めて
夜の真中へ
高く高く私を抱き上げた
その場所に
私は 今も半身いるようだ
これが証拠とでもいうように
落ちているイヤリング
      「朝の捜し物」より

夜と朝が、とてもとても素敵です♡    

やがて
空は灰青色に
ほかのものは墨色におちついていく
静かな移り変わりを
赤ん坊を抱いて見ていた

先月死んだ妹が
そのような自然のことを
手伝っているようにおもわれる
自分で死んだ妹だけど
あの優しい妹が
地獄 というような所にいるとは思えない
自然の 何か小さな仕事を受け持たされて
今度は誠実に
それをやっているように思う
       「妹」より


暮れなずむ空を見ていると、この詩が浮かんできます。
自然の小さな仕事、というのがいいなぁと思います。


 「春近い日」「子へ」は、女性の体のなかを走る血管が透けて見えるような詩です。

 この詩集は、暮らしの中のどんなできごとも、かけがえのない美しさをもっているんだということを感じさせてくれます。私もその美しさを少しでもたくさん見つけたいなと思います。時々開く私の大切な詩集です。
 今はネットの社会になりましたが、古本屋さんはなくならないでほしいと思います。ふらりと入ったお店で思いがけない出会いがあるからです。この詩集がそうでした。

『怒りの葡萄』 大久保康雄訳

 不朽の名作を実感

 世界の名作といわれる長編を、苦しむことなく一気に読んだのは初めてです。長編はなかなか登場人物や状況が、頭にはいるまで四苦八苦し、途中挫折することが多いですが、最初から引き込まれました。
 この本を読む前に、「二十日鼠と人間」を読んで感動し、スタインベックの他の作品も読んでみたくなり、この代表作を手にとりました。

 世界恐慌の不況下、資本主義による農業の機械化と、土地の深刻な干ばつと砂嵐に見まわれたアメリカのオクラハマが舞台です。

 不毛にあえぐ農民たちが土地を追われ、仕事があるといわれるカリフォリニアを目指しました。トムたちジョード一家も家財を売り払って、やっと手に入れたおんぼろトラックで移動します。あまりの過酷な長旅に、途中祖父母が亡くなり、兄たちが逃亡します。困難をのりこえてやっとたどりついたカリフォルニアは、難民があふれ、厳しい状況で、夢が木っ端みじんに打ち砕かれます。あるといった仕事は、低賃金で、命をつなぐのがやっとです。富める者はますます富み、貧しいものはますます貧困を極めるという資本主義の格差社会でした。

 理不尽で不条理ななかで、次々と襲い掛かる不幸や悲惨なできごとに、胸がしめつけられましたが、読後、全体を通して、太く温かな血が流れているの感じました。それは、人間の不屈な精神です。苦境に負けまいとする人たちの姿、あきらめないで生きる姿、弱いものにたいする思いやりの心です。

 とりわけ、母親の逞しさに感動しました。その存在感は抜群です。家族の中心でもあります。やっと手にいれた食材で、家族のために食事を作るところがたくさんでてきます。食事の場面がでてくるとほっとしました。
 時には豚の脂身のスープ、時にはベーコンのスープ、時には馬鈴薯のシチュー、ポークチョップ、馬鈴薯のいためもの、沸かしたコーヒー、どれも、温かな湯気がたっているのが見えるようです。
 声が聞こえそうです「さぁ、お食べ、食べないと力がでないからね」と。
そしてその声は、飢えた自分たちよりさらに飢えた人たちにもむけられるのでした。
 
 不朽の名作だと思います。社会の出来事や歴史を理解するには、人物や人の生活を描く小説は、すごい力があると改めて思いました。

『満月をまって』                                     メアリー・リン・レイ文 / バーバラー・クーニー絵 / 掛田恭子訳

木の声をきき、風の歌を編んだ、かごつくり職人のものがたり

 この絵本は、100年以上も前の、アメリカのニューヨーク州のハドソンに近い山間に住むかご職人の話です。
 満月になると、お父さんはつくったかごをかついで、ハドソンの町へいくのでした。月が道を照らしてくれるからです。町でかごを売って、生計をたてていました。
 
 9才になった少年は、ある満月の日、やっとお父さんといっしょに町につれていってもらえることになりました。ずっとあこがれていた町にわくわく心躍らせながら出かけたのです。しかし、町のひとからは「おんぼろかご、山ザル」とひどいことばをうけ、山に住むお父さんたちがバカにされているのをしり、傷つきます。ほこりに思っていたかご作りの仕事がいやになりました。

 そんな少年に、母親はいいます。
「山の木は、私たちをわかっている。ハドソンの人がわかってくれなくたって、かまわないじゃない」

 父と同じかご作り職人のビッグ・ジョーがいいます。
「風は、おれたちには、かごをつくることをおしえてくれたんだ。風はみている。だれが信用できるか、ちゃんとしっているんだ」

 少年は、それをきいて、自分も、風がえらんでくれた人になりたいとおもいました。
おとうさんやビッグ・ジョーたちのように、かごをつくる人に。

 なんてすてきな美しい物語でしょう。日々の暮らしというもの、仕事というものを考えさせられます。
 このかごづくりの職人のつくったかごは、いつまでたってもつかえるかごです。こんなかごがもてたらどんなにいいでしょう。いまでも見ることはできるそうです。実際、アメリカの博物館や民芸品のコレクション、個人の納屋に残っているそうです。機会があったらぜひ見てみたいと思います。今は、十分です。この絵本に出会えたのですから。

 大好きな画家バーバラー・クーニーの絵が、なんともすてきです。物語に対する深い愛情を感じます。一見目立たない絵本ですが、本棚から手にとれば、満月のようにたっぷりとした光に心が満たされます。

『風の中のシルレル』  

青春の孤独をうめてくれた心の友

この本は、1972年留学を終えて帰国する途中の飛行機事故で亡くなった原葵さんの遺稿集です。残された日記に書かれていた詩や散文がおさめられています。
この詩や散文は、外部に発表するものではなく、葵さん自身が<心の詩>として、日記帳に綴っていたもので、父親である原勝氏は、出版を最初はためらったそうです。あとがきで述べておられます。「出版編集部の…さんから、葵のこの詩その他を発表すれば、葵の親しい心の友ができるのではないかと、勧められ、その意に従うことになった」
まさにこの本は当時大学生だったわたしの心の友となりました。

  詩の吐息

その風が どこに吹いていくのか
私はしらない
でも、この風に吹かれて
ふっふっと
詩の吐息をもらしながら
流れていこう

慄えていても
ひとりぼっちになっても
こちらのほうが
いい世界なのだ
 
詩の吐息をもらしながら
流れていこう


 春

どこかに
凝っと
見つめあっている
瞳がある

どこかに
どんなメロディでも
癒されない耳がある

どこかに
いちばん聴きたいことも
呟かぬ
唇がある


 あのころ、青春の真只中、取り残されたような焦燥感と孤独を感じ、どのように生きていったらいいのかわからず暗中模索の私に、葵の本は救いの女神ように現れました。
100人の友より分かり合えるたったひとりの友がいればいい、そのたったひとりの友になりました。青春の悩み孤独に、真摯に自分と向き合う同じ若者の姿がありました。この本を深夜に、何度開いたことでしょう。その度に安らぎと力をもらいました。私の青春のバイブルだったと思います。

 今は絶版になっているかもしれません。幻の本になるのがとても残念です。この本はいつの世も、迷える青春時代の心の友になってくれるはずです。世の中の本棚にずっと残してほしいと思います。

 だいぶ後になって、父親の原勝氏の『定められたその時刻まで』を手に入れて読みました。葵さんの詩を通して何度会話をされたことでしょうか、愛娘を失った深い悲しみと深い愛情に心がうたれました。