「ナチスから逃れたユダヤ人少女の上海日記」 和田まゆ子訳

10代にただ1つの世界、生存だけをめざす世界にいた一人のユダヤ人少女の記録です

 平成18年発行です。作者ウルスラがナチの迫害から逃れて上海で9年間を過ごし、戦後アメリカに渡り、それから60年経ての発行です。ウルスラは本のなかでのべています。「わたしは過去を手放しはしなかった。それでも、記憶の端のほうの安全な隠し場所にしまいこんだ。いつの日かそこから出してきて、よく調べて、語ることになるだろう。それをしたとき、わたしは風の中に過去を放ったことになる。過去は、今の私と、これからのわたしを作った」と。強い真っ直ぐな精神を感じます。
 この本を読みながら、いろんなことを思ったり考えたりしました。大きく3つにまとめてみました。

 ひとつは、戦争の怖さと人の怖さです。
ナチが行った残虐の数々の行為。それを行ったのはふつうの人、ふつうの人の手です。ふつうの人がそのような行為を強いられる状況に追い込まれます。
戦争は、暮らしの営みや習慣、教育などを破壊し、ふつうの人を、他人に恐怖を与え残虐行為をする人に変えてしまいます。
少女ウルスラは大人たちに尋ねます。
「なぜ、人は人にこんな扱いができるのか。
大人は、肩をすくめ、目を曇らせ、頭を振った。答えはない」
今も、世界の至る所で人を恐怖に陥れる戦いが起きていて、残虐な行為が後を絶ちません。このウルスラの問いの答えは、見つかりません。

 二つ、ユダヤ民族についてです。ユダヤ民族の歴史から人生訓のようなものがよく知られていますが、確かにそのような知恵や気質があるような気がしました。
土地よりも財産、財産よりも知識の共有を大切にするというユダヤ民族の習性がうかがえました。
ウルスラの両親やレヴィゾーン夫妻たちは、飢えや病気、悲惨な状況の中でも前向きに生きることをあきらめません。
「かえられないなら文句は言わない。もっといいものがないなら、これが最高のもの」父のことば。
「どんな貧しい食卓でも母は大事なリネンで整えた。そのリネンを毎週手で洗いアイロンをかけた」
レヴィゾーン家はいつも人に囲まれていました。「人がたくさんいるほうが明るいから」と。
 ここ上海に逃れてきたユダヤ人は成功をおさめた裕福な人たちで、それぞれ人生訓をもった人たちでしたが、個人だけで生き抜くのは困難で、互いに支え合う家族や仲間やコミュニティの結束の力はとても大きいと思いました。
また、よくいわれるユダヤ民族の「会計学」のようなものが感じました。大人たちは、持ち物をお金と交換したり、会計士になったりや事業を起こしたり、手編みや縫物の技術を生かして小銭を稼いだりと、異国の地のなかで動き出す才は興味深かったです。

 三つ目は、日本について。
敵国日本や日本人について書かれたところは、複雑でした。
「合わない軍服を着て、粗末な靴を履き、旧式のライフルを担いで。この間まで田んぼにいた14歳の野卑な若者にしか見えない」「今上海にいる兵隊たちは、生まれてこのかた、小屋の四方の壁と茶碗の内側しか見たことのなかったが、初めてそれ以外のものを目にした。外国人をぽかんとして見るばかりで、持たされる権威に圧倒されている」
戦争末期に、お国のためと招集された地方の青少年のことを思うととてもつらい気持ちになりました。所は違えども、私の父もその中のひとりでした。
 広島長崎に原爆が落とされ戦争は終わりました。戦争が終わったことに喜びはするが、原爆投下には、ウルスラたちは言葉を失い、罪もない人たちの、私たちと同じくらい戦争の終わりを望んでいた人たちの命が失われたと悲しみます。誰が勝つか負けるかよりも、ただひたすら戦争が終わるように願っていた人たちの命だったのではないかと。

 ウルスラの戦後は、自分の民族のおびただしい死を知ることから始まりました。自分がいく晩も悪夢にうなされていたのは、たくさんの愛する人たちが無残に死んでいき、空虚な顔が叫び声を発っしながらわたしに取り憑いていたのだから無理はないことだ、と振り返っています。 
 彼女の上海での、心の師ユアン・リンのことば「平安とは、自己と人を理解することによるものだ」いい言葉だと思います。地球全体に根付くことを願わずにはいられません。
 ウルスラは、現在アメリカで出版社の経営に携わりながら、料理ガイドや「女性の心に効くチョコレート」と題したシリーズのための短編を発表していると紹介されています。それを読む機会があればうれしいです。

 「作りおきおかず180」 奥田和美

毎日の食事が楽で楽しくなりました
 
こんな本が欲しかったです。奥田さんは、ブログ「たっきーママ」で大人気の主婦だそうです。ナットク!!
 ブログの読者は子育て真っ只中のお母さんや兼業主婦が多いそうですが、夫婦ふたり暮らしのわが家のスタイルにピッタリ、そして少しでも楽をしたい私にピッタリの料理本です。二人で家にいることも多いので、食事を作るのに、時間をかけず美味しいものがすぐ食べられるので助かります。

良かった点を思いつくままに、あげると、
1、 美味しい
2、 材料がいつもあるものが多い。
3、 保存期間冷蔵庫5日間冷凍3週間など、丁度いい。
4、 簡単で作りやすい
5、 バリエーションが多い
6、 お客さんがきても、安心
7、 家で宴会が気軽にすぐできる
8、 お金があまりかからない
9、 食事の用意時間が短縮
10、 パーティを開きやすくなったので、人が集まり楽しい時間が増えた。

 いろいろ作り、欠かしたことのないものは、コールスローサラダです。必ず付けて、飽きることなく食べています。時にはコーンやビーンズ、オニオン、アボガドなど付け加えてたりして。
 デパ地下風のサラダ4つもお気に入り。人が集まってワイワイするときにはぜひ作っておきたいです。
 夫が、仕事にお弁当を持っていくときには、ホントに便利。朝、幾種類かチョイチョイと詰めてすぐできあがります。
180品を全部作ってみたいと思います。

これだけのレシピ、実際試食しながらそろえるのは大変だったことでしょう。
お陰様で、食事が楽になり楽しくなりました。ありがとうございます。

『にぐるま ひいて』 ドナルド・ホール作 バーバラー・クーニー絵 もきかずこ訳

 慎ましい暮らしの豊かさ

この絵本も大好きなバーバラー・クーニーの絵です。クーニーがアメリカの自然、その自然に根ざした暮しをどんなに愛したか伝わってきます。

 語り継がれてきたアメリカの古き良き時代の暮らしぶりを伝えています。

10月 とうさんは にぐるまに うしを つないだ。
そこから うちじゅう みんなで
このいちねんかんに みんなが つくり そだてたものを
なにもかも にぐるまに つみこんだ。
 
家族みんなでつくったろうそくや楓砂糖、じゃがいも、りんご、はちみつ、キャベツ、かぶ。母さんが亜麻からしあげたリンネル、娘が刺繍したリンネル、息子がしらかばからつくったほうき……。荷車いっぱいに積んで、お父さんは、何日もかけて、丘を越え谷をぬけ、村々をとおりぬけて街にでます。そして積んできたものを売ります。品物を入れてきた箱や樽や空き袋も、そして荷車も、手綱も牛も全部です。
それから生活必需品やおみやげを買って、長い道のりを歩いて帰ります。
そしてまた、季節はめぐり、新しい一年が始まるのです。

これはターシャチューダーさんが愛した時代の生活です。ターシャさんは、都会を離れてバーモンドの山の中でこのような暮らしをしました。
私もやっと、都会を離れ自然のなかで自由な時間をもてるようになりました。季節の移り変わりを肌で感じながら、野菜や果物を育てて収穫したり、保存食を作ったり、着古した服や布から小物を作ったりする生活を楽しみたいと思います。
  
 自然との関りが希薄になってスマホを駆使する今の子どもたちは、この絵本を読んでどう思うのでしょうか。私にはまったく見当がつきません。感想を聞いてみたいなと思います。

 バーバラー・クーニーの絵本にでてくる人たちは、どの人もすくっとして姿勢がいいのです。堂々として気品があります。姿勢の悪い人はでてきません。胸をはって生きている明るさがあります。今回は、人物に加えて牛も羊もガチョウもそうです。そしてみんな小さな目が生き生きと描かれています。

 ゆったりと穏やかな気持ちにしてくれる本です。そして日々の暮らしを大切にしたいと思わせてくれます。

『袋小路の男』

すてきな恋愛小説です
 
読み終えた後、もう一度読み返しました。すぐ続けて読むのは私には珍しいです。読み飛ばしたものがあったからではありません。いい気持ちをもう一度味わいたかったからです。

 大日方日向子と小田切孝の物語です。ふたりは、高校の先輩と後輩で、小田切孝は袋小路にある家に住んでいます。
 二人はつかず離れず12年間つきあっています。一方的な片思いから始まった日向子は、寂しく切ない思いをいっぱいしました。「片思いが、蛇の生殺しのように続いていくのがとても苦しかった」とあります。
 しかし、肝心のときに、お互いがかけつけそれぞれの向かい方で寄り添います。お互いを理解しています。小田切孝が家の階段から落ちて背骨を折って入院したとき、日向子は大阪から通って付き添います。
日向子が上司との情事で妊娠し堕胎するときに、小田切孝が病院に付き添います。

 小田切孝は、なかなか文学賞に応募しても落選ばかりです。ジャズバーでアルバイトをしながら書き続けています。
「あなたが自分のことを作家だと言ったときから、私はあなたが作家だと思っている」この日向子のことばがすごいです。ここがこの小説の心臓部だと思います。

「冷蔵庫をいきなり開けられるのは、スカートをまくられるよりびっくりする」という日向子です。

 最後は、憎いほど素敵です。ここをもう一度味わいたくて、2度読み返したのです。
この二人の20年後はどうなっているかしらと想像してみます。きっとこのまま変わらず、二人は結婚はしていないでしょう。いい関係だからです。

こういう純愛小説を書ける作家絲山秋子は、かっこいいなあと思いました。

『あなたと共に逝きましょう』 

リアルな描写、ずしりときました

 図書館で借りた本です。読んで、自分の本棚に持っていたいと思う本と、そうでない本があります。この本は、持っていたいと思わない本です。だからといって、おもしろくなかったわけではありません。むしろ、とても面白くあっというまに読みました。持っていたいと思わない理由は、リアルで重いからです。

 このリアルで重いからこそ、村田喜代子さんの本に惹かれます。短い状況描写や会話に、臨場感があり、どきっとさせられます。自分のことを言われたみたいに、身につまされることがあります。共感することが多いのです。時には、自分が気づかなかった、気づけなかった感情を見事に露呈してくれます。整理してくれるときもあります。重さは、自分が重ねてきた年齢からきていると思います。
 文体は、乾いていて男性的にみえますが、中身はどっこい、ずっしりとした情感にあふれ女性的です。

 この本は、いつ破裂するかもしれない動脈瘤をかかえた夫と、それを支える妻の物語です。夫の一大事は妻の一大事、いろんな世界の扉を二人で、時にはひとりで開けていきます。いろんな療法にすがりながら、回復していく夫。現実の世界と夢との境界線をたゆたう妻は、夫の回復からとり残されます。夫の順調すぎる回復ぶりに腹ただしさを覚えてしまいます。なぜか……。意識下は単純ではありません。そんな妻に手をさしのべてくれたのはひとりの女友達です。

 今回もそうですが、取材の半端でないことに感心させられます。だから、そのリアル感にぞくぞくさせられるのだと思います。
 人生の後半に、村田喜代子さんに出会ってよかったと思います。

『だいすき』 ハンス&モニック・ハーヘン作 マーリット・テーンクヴィスト絵   野坂悦子、木坂涼訳


オランダの作家と画家の詩画集です。

 訳はわたしの好きな詩人、木坂涼さんです。
 幼い少女の瞳に映った日常のつぶやきが、美しい詩になっています。
 絵のなかの少女が、魔法使いになったのでしょうか、いくつかは、おまじないのことばとなって、私の生活にも浸透してしまいました。


   おおきな あし

わたしの あたらしい くつは
とっても おおきい
あるいてちょうだいって
せかいじゅうが まってるの
 新しい靴を買うたびにこの詩をおもいだします。この靴をはいて、私を待っているところに行かなくちゃって。いろんな街々、いろんな国々、いろんな海や山へ。


   よる

あたりは くらいし もう ねむるじかん
だれど もうちょっと まどのそばに いよう
となりの ねこが
そとへ でていく

かぜのおとが きこえる
きが ゆらゆら ゆれて
やねを トントン たたいている
「きみも そとへ おいでよ」って

だけど でては いけないの
おそいし
あたりは まっくらだし
とおりは しおんとしている

となりの ねこが
かえってきた
カーテンを しめよう
よるが はじまるように
 カーテンも雨戸も閉めた、ネコは眠った、パジャマに着替えた、歯を磨いた、布団をかけて、スタンドの灯を消そう、さぁ、これから夜がはじまるぞ、って思って目をつぶります。安心して眠りにつけます。


 
   ゆめ

よる まだ おそくならないうちに
ねどこが あたたかくなってきたころに
ゆめを みるの
なにをしても いい ゆめ
なんでも できちゃう ゆめ
なんでも もっている ゆめ
でも
なきたい きもち
さみしい きもちだけは
もっていきたくないの
 ほんとにそう思います。こどもも大人も、だれでもみんな、いい夢をみれますように。

『コルシア書店の仲間たち』 

熟成した深い味わい

 彗星のように現れた、といっても過言ではありません。ある時期突然、どこの本屋さんに行っても、著者の本が、目立つところに山積みになって置かれるようになりました。初めて目にする名前に、誰だろうと思っていました。それから次々と新しい本が刊行され、しばらく「須賀敦子」ブームになりました。
 最初に手にとったのは、仕事で来た新宿の帰りに寄った書店でした。電車で読もうと、エッセイ風の薄いこの文庫本を買いました。
いざ読み始めると、初めて味わう独特の世界に引きこまれました。

 読み進んでも、このコルシア書店がどういうところか、キリスト教のことや当時の社会背景も、漠然としかわからなかったのですが、そんなことにお構いなしにぐいぐい惹き込まれました。

 30年前の過去を回想しながらというより、そこに自分を引き戻し、仲間たちとともに、あたかもそこで息づいているかのように語られています。コルシア書店の主なメンバーはもちろんのこと、書店に集う友人、客、パトロンその家族など30人近くが登場します。

 語り口が魅力的です。

「求めていたものにひかりがあたる思いだった。(ダヴィデの)詩のなかのことばを通して質問すると、漠然とした答えのなかに、たしかな感触のある思考の「種」がひそんでいた。」

「むしろ、ラウラの意見というのは、たいていごく平凡で、常識的なものなのに、みなが、夏の日の涼しい風のように、彼女の意見を待つことがあった。」

「私のミラノは、たしかに狭かったけれども、そのなかのどの道も、だれか友人の思い出に、なにかの出来事に、しっかりと結びついている。通りの名を聞いただけで、だれかの笑い声を思い出したり、だれかの泣きそうな顔が目に浮かんだりする。」

「ピーノだけは、少年のようなひたむきさで、ダヴィデをなぐさめることができた。チシャ猫の笑いはこんなだったかもしれない、と思うような、それでいて、ふしぎなやさしさのある笑顔のピーノと目があうと、彼のたましいのかけらが、こっちにくっついてしまいそうな人なつっこさがあった。」
 この本が30年もの時間を経て書かれたというのが、すごいなと思います。それだけ長い時間があったからこそ、仲間たちの物語をこのように語ることができたのだと思います。熟成というのでしょうか。
 それと、著者にとってこのコルシア書店は、本文にさりげなく書かれていますが「生きるエネルギーの大半だった」と。だから深い味わいを感じされてくれるのだと思います。

 仲間たちと出会い、別れ、今はそばにだれもいない、でも、記憶のなかでいつまでも生き生きと生きている、記憶は失ったものではないから。
 最後のほうで、孤独について書かれたところでは、心に沁み、哀しくも心温まるものがありました。
 自分の人生をも顧みさせ希望を与えてくれる本です。大切な本です。
「人生ほど、生きる疲れを癒してくれるものはない」著者訳のサバのことばが目にひきました。

『40歳からは食べ方を変えなさい!』 済陽高穂

これならすぐ実践できそう

 健康に関する本はたくさんあります。内容も、朝食は摂るべきだ。いや、摂らない方がいい。生野菜は体を冷やすからよくない、いや、酵素がいっぱいあるから生がいい。玄米は栄養の宝庫だ。いや、毒素があるから良くない。と正反対のことがうたわれて、訳が分からなくなります。どれも間違いはないのかもしれませんが、タイトルや伝え方に振り回される傾向があります。
 読んでわかったようなわからなかったような…、腑に落ちるような落ちないような…。

 夫が病気を患ってからは、特に食事に気を遣うようになり、健康に関する本を、今までよりは真剣に読んだり調べたりしました。ただ、健康にいいからと、美味しくないものをがまんして食べるのはいやですし、何よりも食事は楽しく食べたいなあと思います。

 たどりついたのがこの本です。中年以降の食生活のベースとなる本で、まとめて簡単に書いてあります。食べ物の規制のアプローチの仕方がいいので、すんなりと理解できました。実践向きの本です。


 済陽式食習慣

 1、塩分制限
 2、動物性たんぱく質と脂肪を制限する
 3、野菜、果物を大量に摂る
 4、主食は玄米や胚芽米にし、いもや豆類も摂る 
 5、ヨーグルト、きのこ、海藻を摂る
 6、蜂蜜、レモン、ビール酵母を摂る
 7、油はオリーブ油、ごま油、なたね油にする
 8、自然水を飲む


 厳選!食材は、

 玄米、鶏肉、鮭、青魚、牡蠣、大根、キャベツ、ブロッコリー、人参、トマト、ゴマ、ぶどう、大豆、納豆、椎茸、じゃがいも、昆布、卵、ヨーグルト、オリーブ油、緑茶、蜂蜜、酢
「週2回は食べたい玄米」 毎食ではないのがいいです。
「じゃがいもは一日一個でガンは防げる」うむうむ。
「1週間で7色の野菜を食べよう!」1週間でというのがいいです。
「ジュースは、ミキサーではなくジューサ―がおすすめ」ミキサーでいいかなと思っていたら、酵素を壊すそうです。

 本の編集、レイアウトも気に入りました。写真や図解でわかりやすいし、めくりやすいので、手元に置いておくには手頃です。これなら、手に取っているうちに、いつのまに身につきそうです。まずは、実践可能な本がベストです。

『雲南の妻』 

 
こういう世界もあったのかと、自分が拡げられたような感じがします

 この作家の『焼野まで』と『光線』を読んで、つらい内容なのに、心地よさと安堵感をおぼえ、不思議な気持ちになりました。それで、他の作品を読んでみたくなり図書館で探しました。お目当ての本がなく、あまり気がすすまないままこの本を手にとりました。

 しかし、予想をはるかに裏切るものでした。「すごいな、この作家は、なにものだ」と思わずにいられませんでした。今まで、この作家の本は、読んでみたいと思う機会がありませんでした。私が今の年齢になるまで、本が待ってくれていたように思います。そろそろ読ませてもいいだろうと、向こうからやってきたような出会いです。

 雲南少数民族の世界、女性同士の結婚、中国茶の味わい、どれも広く多く深い知識の量で、これらを村田喜代子という作家を通して抽出されたのがこの物語だと思います。その深みあるエッセンスは、知識というより勉強の賜物でしょうか、それと感性のすばらしさ、私の中を心地よい風が通りぬけていくようです。

 雲南省に駐在している商社マンの妻が、少数民族若い女性と結婚する。その雲南は、中国の南部、ミャンマーに近く、中央政府の統治がまだ及んでいなく、昔からの独自の生活が続けられている。
 その生活に密着した同姓婚の在り方、慣習は興味深いです。こういう世界もあるんだと、自分が拡げられた感じがしました。

 あるの講演会の講師の話から始まります。交通事故にあって、何ケ月か生死をさまよいながら、どこかの国で現地の女性と結婚し家庭をもち、幸せに暮らしている夢をずっと見ていたと。麻酔が切れて目が覚め、桃源郷から、激痛の現実に戻された。この話を聞いて、主人公の昔の記憶の扉が開きます。

 雲南少数民族出のキャリアウーマンの女性との同姓婚、夫が二人になります。男性の夫と女性の夫。仕事も家事も協力しあっていくので、3人の生活がうまくいきます。主人公はとまどいながら、しだいに幸福感に包まれていきます。ここらへんの主人公たちのこころの動きが淡々と描かれ、甘く切なくていいのです。
そして突然別れがきます。日本に帰ることになったからです。
 それから、年月が過ぎ、静かに暮らす主人公の姿がありました。開いた記憶の扉、それが遠い別の世界の出来事っだようにも思われるのでした。 
 読後、匂い立つ余韻にぼーっと浸りました。現実的なのに、とても幻想的です。中国茶と未知の世界の深い味わいと香りに包まれました。
 
 「人生はトシ相応のタカラが、ゆく手ゆく手に埋められてある」と田辺聖子氏のことばですが、本当でした。

『暖炉の火のそばで』

ターシャさんの世界は、私のあこがれです
 
 初めてターシャさんの本を手にしたときはびっくりしました。開拓時代の本かと思ってたら、今現在の本でした。アメリカの古き良き時代にタイムスリップしたようでした。そのとき、私もこういうに暮らせたらいいなあと思いました。

 ターシャさんの手仕事はステキです。キルト、かご、人形、パン、クッキー、ろうそく、リンゴジュース、パイ、毛織物…。ながめているだけでうっとりします。

 ターシャさんに影響され、時間をかけて、少しずつ私の生活も変わっていきました。

 数年前に、自然豊かなところに家をみつけて移りました。石ころだらけの庭も少しずつ土を入て、花やハーブや野菜を植えています。果物の木も植えました。
食卓に、収穫したトマトやピーマン、レタスが並び、ハーブでお茶をいれ、無花果夏みかんのジャムに囲まれると、とても豊かな気持ちになります。
 夜は暗く静かで、星がきれいです。暖炉はありませんが、ストーブで温まりながら、本を読んだり、おしゃべりしたりして、テレビは見なくなりました。

 「自分がこういうふうに暮らしたいと思ったら、そうすればいいのよ」っていうターシャさんの声が聞こえてきそうです。
 生活のなかで、自分の手で創り出す喜びをもっと味わいたい、決して器用ではない自分の手を見て、もう思っています。