『ターシャ・チューダーの手帳2017』

数少ない大のお気に入り


これは、本ではありません。手帳です。
2年前から日記帳として愛用しています。
近くの書店やステーショナリー店にはおいてなく、今年の分は手に入れ損ねていました。
日記帳代わりになりそうなノートが手元にいくつかあったので、今年はこれを使おうと思っていました。

夫との何気ない会話で、そのことを話したら、本当に気に入ったものを使った方がいいよと、言われました。
そうだと思い、ネットで注文しすぐ届けてもらいました。

大きさや表紙の硬さ、書くスペースが手頃で書きやすく、何よりも好きなターシャさんの世界に、いっとき浸れるのが楽しみの手帳だったと改めて気づきました。

この日記帳には、一日の楽しかったことだけしか書きません。楽しかったことばかり浮かんでくるからです。ターシャマジックかも。

毎日の小さな楽しみの積み重ねが、いつか大きな喜びにつながるかもしれません。
現に、ターシャさんの写真や言葉やイラストを目にすると、花の球根を植えたり種を蒔いたりしたくてうずうずしています。
そして、日常の小さな楽しみが次の楽しみを産むような感じがします。

お気に入りはたくさんあっても、大のお気に入りは多くはありません。簡単にあきらめて、ターシャマジックの恩恵を逃すところでした。

 『起終点駅 ターミナル』

雪と潮風の匂い、澄んだ余韻

 映画を観て、原作を読んでみたいと思い、本を手にしました。桜木紫乃さんの本は初めてでした。まず、長編だと思っていたので短編であったことにおどろきました。1冊にこの他5つの短編おさめられています。
 本の表紙の絵は、内容にこの絵のような印象はないので違和感がありました。

 映画は、佐藤浩市、本田翼(私には初めての役者さんでしたが)、尾野真千子の花のある役者さんたちがそろっていました。いい映画でした。原作と違うところがいくつかありました。主人公鷲田完治は、映画では、最後、息子の結婚式には出席することになり、終点駅が、希望に向かう始発駅になるのを感じさせます。しかし原作では、出席せずおだやかな諦念の気持ちに包まれながらも、静かな再生の余韻が残りました。どちらもいいです。

 1度目に読んだときは、映画の影響で、特に印象的だった佐藤浩市の表情がどうしても本の中に現れてきてしまいました。
 2度目に読んで、映画の印象が少し払拭されました。
 完治は、冴子と再会したことで自分が立っている位置がはっきりと見えたとあります。裁判官としての仕事、妻と息子との家庭生活、順調に進んでいるようだが、言いようのない焦燥感を感じていると。
 そして、冴子と再び関係をもった時、自分が妙に安堵し、今まで手にしてきた幸福が自分に過ぎたるものだったことを自覚します。
 そして、完治は今までの幸福を捨てることを決意するのですが…。
人の感情の深いところは複雑です。

 その後、冴子の死から長い年月が過ぎ、最果ての地で完治は、人との関わりを避け、国選弁護士としてひっそりと暮らしています。
そんな完治に、冴子の面影をもった敦子との出会いから、変化が訪れます。

 人の心の影を深く静かに描いていて、桜木紫乃氏の本は、澄んだ余韻があります。それは雪と潮風の匂いをともなって細くいつまでも続きます。

 他に本に収められたなかで、「潮風の家」が心に残りました。悲しい物語ですが、85歳のたみ子の明るさと逞しさがまぶしいです。たみ子も千鶴子も翻弄された自分の運命に、気持ちの清算をしてひっそりと健気に生きています。
 千鶴子にテレビを送ってもらったたみ子に、よかったねと、涙ぐんでしまいました。

 『まいにち食べたい“ごはんのような”クッキーとビスケットの本』 なかしましほ

美味しい、体にやさしい、めんどうでない、この三つがそろっています

 夫が、病気を患ってから、食べるものに気をつかうようになりました。
コーヒー、紅茶が好きな私たちに欠かせないのが、クッキーやビスケットです。何よりもお茶でくつろぐ時間が好きなのです。
習慣化すると、少しのお菓子でも気になります。バターや生クリームの摂り過ぎは恐いです。
 何かないかなあと探したところ、本屋さんで見つけました。帯に「第1回料理レシピ本お菓子部門大賞受賞」と書いてありました。

 基本の材料は、いたってシンプル。粉、油、砂糖だけ。そして、普段家で愛用している、国内産の薄力粉、全粒粉、菜種油、メープルシロップが基本です。それに応用として、ナッツ、ドライフルーツ、オートミルなどです。体にやさしく、家にあるものなので、すぐ作りました。
 作り方もシンプル。粉をふるいにかけたり、寝かせたりしません。ここが気に入りました。この2つがないだけで、ずいぶん気が楽です。
 粉に油をすり合わせてシロップを混ぜて、形をつくって焼きあげる。
 とても美味しいです。夫も香ばしいと気に入ってよくリクエストします。お客さんがきたときもあっというまになくなります。
もっぱら、基本のクッキーで満足ですが、材料があるときに、ココアとマーマレードのクッキー、ごまクッキーなども作ります。

 美味しい、体にやさしい、めんどうでない、この三つがそろっています。いい本を見つけたと思います。著者のなかしまさんも体調を崩していたときに、食べられるおやつを探して、これを作ったそうです。

 バターや生クリームも好きなので、外でお茶を飲むときに味わっています。
ゆったりとお茶をのんで過ごすひとときは、人生のいい時間。大切にしたいです。

「薄情」

わたしの薄情

 私は絲山秋子を信頼しています。絲山氏の「袋小路の男」の女主人公が「彼は作家です」と言い切る心情と同じだと思っています。絲山氏の本をもっと読んでいけば、その理由もはっきりするかもしれません。

 いつものように、長くはない文章の間に、「ん?」と立ち止まり、「こういうことか」と思いながら、時にはうなりながら、いつしか絲山ワールドにはまりました。普段の生活で無意識にやり過ごしている感覚を、浮かび上がらせてくれます。そしてそういうことかと気づいたことで生きやすくなります。

 この本のなかでは、「地元の人間」「ヨソ者」「出戻った人間」がでてきます。人や社会は階層や区別や壁を作ってしまいます。
主人公の宇田川は、大学は東京で地元群馬に出戻った人間です。神主を継ぐということが決まっており、今は他者との深入りを避けてなんとなく暮らしています。深入りはしないけど、しっかりと相手との距離ははかっています。今はこういう人が多いのではないかと思います。
ヨソ者や出戻った人間との関わりの中で、自分を見つめていく物語です。

 この本を読みながら、自分のことを思いました。私は地方に移住してきたヨソ者です。地元の人とくっきりと区別があります。自分がヨソ者だと思っているし、地元の人もそう接します。これからそれがどう変化していくのだろうかとちょっと楽しみでもあります。

また、高校まで過ごした故郷に対する思いは複雑です。故郷を離れた自分が薄情に思えます。そのときは故郷=閉塞感でした。
しかし、久しぶりに訪れた故郷は様変わりして、自分がヨソ者になったという思いをいだきます。故郷が薄情に思えました。

自分の感じた薄情は、宇田川の独白と同じ、一言でいえばくだらなく、どうでもいいこと。でもそう感じるのも愛情の裏返しかな、と思えました。愛情にも表と裏があるようです。

読み進みながら、宇田川や絲山氏のドライブの同乗者になったようで、走り抜けたリアル感があり、心地よさが残りました。それは生きやすさでもあります。このリアル感は、絲山秋子氏の特徴だと思います。好きな理由の一つでもあります。

「ナチスから逃れたユダヤ人少女の上海日記」 和田まゆ子訳

10代にただ1つの世界、生存だけをめざす世界にいた一人のユダヤ人少女の記録です

 平成18年発行です。作者ウルスラがナチの迫害から逃れて上海で9年間を過ごし、戦後アメリカに渡り、それから60年経ての発行です。ウルスラは本のなかでのべています。「わたしは過去を手放しはしなかった。それでも、記憶の端のほうの安全な隠し場所にしまいこんだ。いつの日かそこから出してきて、よく調べて、語ることになるだろう。それをしたとき、わたしは風の中に過去を放ったことになる。過去は、今の私と、これからのわたしを作った」と。強い真っ直ぐな精神を感じます。
 この本を読みながら、いろんなことを思ったり考えたりしました。大きく3つにまとめてみました。

 ひとつは、戦争の怖さと人の怖さです。
ナチが行った残虐の数々の行為。それを行ったのはふつうの人、ふつうの人の手です。ふつうの人がそのような行為を強いられる状況に追い込まれます。
戦争は、暮らしの営みや習慣、教育などを破壊し、ふつうの人を、他人に恐怖を与え残虐行為をする人に変えてしまいます。
少女ウルスラは大人たちに尋ねます。
「なぜ、人は人にこんな扱いができるのか。
大人は、肩をすくめ、目を曇らせ、頭を振った。答えはない」
今も、世界の至る所で人を恐怖に陥れる戦いが起きていて、残虐な行為が後を絶ちません。このウルスラの問いの答えは、見つかりません。

 二つ、ユダヤ民族についてです。ユダヤ民族の歴史から人生訓のようなものがよく知られていますが、確かにそのような知恵や気質があるような気がしました。
土地よりも財産、財産よりも知識の共有を大切にするというユダヤ民族の習性がうかがえました。
ウルスラの両親やレヴィゾーン夫妻たちは、飢えや病気、悲惨な状況の中でも前向きに生きることをあきらめません。
「かえられないなら文句は言わない。もっといいものがないなら、これが最高のもの」父のことば。
「どんな貧しい食卓でも母は大事なリネンで整えた。そのリネンを毎週手で洗いアイロンをかけた」
レヴィゾーン家はいつも人に囲まれていました。「人がたくさんいるほうが明るいから」と。
 ここ上海に逃れてきたユダヤ人は成功をおさめた裕福な人たちで、それぞれ人生訓をもった人たちでしたが、個人だけで生き抜くのは困難で、互いに支え合う家族や仲間やコミュニティの結束の力はとても大きいと思いました。
また、よくいわれるユダヤ民族の「会計学」のようなものが感じました。大人たちは、持ち物をお金と交換したり、会計士になったりや事業を起こしたり、手編みや縫物の技術を生かして小銭を稼いだりと、異国の地のなかで動き出す才は興味深かったです。

 三つ目は、日本について。
敵国日本や日本人について書かれたところは、複雑でした。
「合わない軍服を着て、粗末な靴を履き、旧式のライフルを担いで。この間まで田んぼにいた14歳の野卑な若者にしか見えない」「今上海にいる兵隊たちは、生まれてこのかた、小屋の四方の壁と茶碗の内側しか見たことのなかったが、初めてそれ以外のものを目にした。外国人をぽかんとして見るばかりで、持たされる権威に圧倒されている」
戦争末期に、お国のためと招集された地方の青少年のことを思うととてもつらい気持ちになりました。所は違えども、私の父もその中のひとりでした。
 広島長崎に原爆が落とされ戦争は終わりました。戦争が終わったことに喜びはするが、原爆投下には、ウルスラたちは言葉を失い、罪もない人たちの、私たちと同じくらい戦争の終わりを望んでいた人たちの命が失われたと悲しみます。誰が勝つか負けるかよりも、ただひたすら戦争が終わるように願っていた人たちの命だったのではないかと。

 ウルスラの戦後は、自分の民族のおびただしい死を知ることから始まりました。自分がいく晩も悪夢にうなされていたのは、たくさんの愛する人たちが無残に死んでいき、空虚な顔が叫び声を発っしながらわたしに取り憑いていたのだから無理はないことだ、と振り返っています。 
 彼女の上海での、心の師ユアン・リンのことば「平安とは、自己と人を理解することによるものだ」いい言葉だと思います。地球全体に根付くことを願わずにはいられません。
 ウルスラは、現在アメリカで出版社の経営に携わりながら、料理ガイドや「女性の心に効くチョコレート」と題したシリーズのための短編を発表していると紹介されています。それを読む機会があればうれしいです。

 「作りおきおかず180」 奥田和美

毎日の食事が楽で楽しくなりました
 
こんな本が欲しかったです。奥田さんは、ブログ「たっきーママ」で大人気の主婦だそうです。ナットク!!
 ブログの読者は子育て真っ只中のお母さんや兼業主婦が多いそうですが、夫婦ふたり暮らしのわが家のスタイルにピッタリ、そして少しでも楽をしたい私にピッタリの料理本です。二人で家にいることも多いので、食事を作るのに、時間をかけず美味しいものがすぐ食べられるので助かります。

良かった点を思いつくままに、あげると、
1、 美味しい
2、 材料がいつもあるものが多い。
3、 保存期間冷蔵庫5日間冷凍3週間など、丁度いい。
4、 簡単で作りやすい
5、 バリエーションが多い
6、 お客さんがきても、安心
7、 家で宴会が気軽にすぐできる
8、 お金があまりかからない
9、 食事の用意時間が短縮
10、 パーティを開きやすくなったので、人が集まり楽しい時間が増えた。

 いろいろ作り、欠かしたことのないものは、コールスローサラダです。必ず付けて、飽きることなく食べています。時にはコーンやビーンズ、オニオン、アボガドなど付け加えてたりして。
 デパ地下風のサラダ4つもお気に入り。人が集まってワイワイするときにはぜひ作っておきたいです。
 夫が、仕事にお弁当を持っていくときには、ホントに便利。朝、幾種類かチョイチョイと詰めてすぐできあがります。
180品を全部作ってみたいと思います。

これだけのレシピ、実際試食しながらそろえるのは大変だったことでしょう。
お陰様で、食事が楽になり楽しくなりました。ありがとうございます。

『にぐるま ひいて』 ドナルド・ホール作 バーバラー・クーニー絵 もきかずこ訳

 慎ましい暮らしの豊かさ

この絵本も大好きなバーバラー・クーニーの絵です。クーニーがアメリカの自然、その自然に根ざした暮しをどんなに愛したか伝わってきます。

 語り継がれてきたアメリカの古き良き時代の暮らしぶりを伝えています。

10月 とうさんは にぐるまに うしを つないだ。
そこから うちじゅう みんなで
このいちねんかんに みんなが つくり そだてたものを
なにもかも にぐるまに つみこんだ。
 
家族みんなでつくったろうそくや楓砂糖、じゃがいも、りんご、はちみつ、キャベツ、かぶ。母さんが亜麻からしあげたリンネル、娘が刺繍したリンネル、息子がしらかばからつくったほうき……。荷車いっぱいに積んで、お父さんは、何日もかけて、丘を越え谷をぬけ、村々をとおりぬけて街にでます。そして積んできたものを売ります。品物を入れてきた箱や樽や空き袋も、そして荷車も、手綱も牛も全部です。
それから生活必需品やおみやげを買って、長い道のりを歩いて帰ります。
そしてまた、季節はめぐり、新しい一年が始まるのです。

これはターシャチューダーさんが愛した時代の生活です。ターシャさんは、都会を離れてバーモンドの山の中でこのような暮らしをしました。
私もやっと、都会を離れ自然のなかで自由な時間をもてるようになりました。季節の移り変わりを肌で感じながら、野菜や果物を育てて収穫したり、保存食を作ったり、着古した服や布から小物を作ったりする生活を楽しみたいと思います。
  
 自然との関りが希薄になってスマホを駆使する今の子どもたちは、この絵本を読んでどう思うのでしょうか。私にはまったく見当がつきません。感想を聞いてみたいなと思います。

 バーバラー・クーニーの絵本にでてくる人たちは、どの人もすくっとして姿勢がいいのです。堂々として気品があります。姿勢の悪い人はでてきません。胸をはって生きている明るさがあります。今回は、人物に加えて牛も羊もガチョウもそうです。そしてみんな小さな目が生き生きと描かれています。

 ゆったりと穏やかな気持ちにしてくれる本です。そして日々の暮らしを大切にしたいと思わせてくれます。

『袋小路の男』

すてきな恋愛小説です
 
読み終えた後、もう一度読み返しました。すぐ続けて読むのは私には珍しいです。読み飛ばしたものがあったからではありません。いい気持ちをもう一度味わいたかったからです。

 大日方日向子と小田切孝の物語です。ふたりは、高校の先輩と後輩で、小田切孝は袋小路にある家に住んでいます。
 二人はつかず離れず12年間つきあっています。一方的な片思いから始まった日向子は、寂しく切ない思いをいっぱいしました。「片思いが、蛇の生殺しのように続いていくのがとても苦しかった」とあります。
 しかし、肝心のときに、お互いがかけつけそれぞれの向かい方で寄り添います。お互いを理解しています。小田切孝が家の階段から落ちて背骨を折って入院したとき、日向子は大阪から通って付き添います。
日向子が上司との情事で妊娠し堕胎するときに、小田切孝が病院に付き添います。

 小田切孝は、なかなか文学賞に応募しても落選ばかりです。ジャズバーでアルバイトをしながら書き続けています。
「あなたが自分のことを作家だと言ったときから、私はあなたが作家だと思っている」この日向子のことばがすごいです。ここがこの小説の心臓部だと思います。

「冷蔵庫をいきなり開けられるのは、スカートをまくられるよりびっくりする」という日向子です。

 最後は、憎いほど素敵です。ここをもう一度味わいたくて、2度読み返したのです。
この二人の20年後はどうなっているかしらと想像してみます。きっとこのまま変わらず、二人は結婚はしていないでしょう。いい関係だからです。

こういう純愛小説を書ける作家絲山秋子は、かっこいいなあと思いました。

『あなたと共に逝きましょう』 

リアルな描写、ずしりときました

 図書館で借りた本です。読んで、自分の本棚に持っていたいと思う本と、そうでない本があります。この本は、持っていたいと思わない本です。だからといって、おもしろくなかったわけではありません。むしろ、とても面白くあっというまに読みました。持っていたいと思わない理由は、リアルで重いからです。

 このリアルで重いからこそ、村田喜代子さんの本に惹かれます。短い状況描写や会話に、臨場感があり、どきっとさせられます。自分のことを言われたみたいに、身につまされることがあります。共感することが多いのです。時には、自分が気づかなかった、気づけなかった感情を見事に露呈してくれます。整理してくれるときもあります。重さは、自分が重ねてきた年齢からきていると思います。
 文体は、乾いていて男性的にみえますが、中身はどっこい、ずっしりとした情感にあふれ女性的です。

 この本は、いつ破裂するかもしれない動脈瘤をかかえた夫と、それを支える妻の物語です。夫の一大事は妻の一大事、いろんな世界の扉を二人で、時にはひとりで開けていきます。いろんな療法にすがりながら、回復していく夫。現実の世界と夢との境界線をたゆたう妻は、夫の回復からとり残されます。夫の順調すぎる回復ぶりに腹ただしさを覚えてしまいます。なぜか……。意識下は単純ではありません。そんな妻に手をさしのべてくれたのはひとりの女友達です。

 今回もそうですが、取材の半端でないことに感心させられます。だから、そのリアル感にぞくぞくさせられるのだと思います。
 人生の後半に、村田喜代子さんに出会ってよかったと思います。

『だいすき』 ハンス&モニック・ハーヘン作 マーリット・テーンクヴィスト絵   野坂悦子、木坂涼訳


オランダの作家と画家の詩画集です。

 訳はわたしの好きな詩人、木坂涼さんです。
 幼い少女の瞳に映った日常のつぶやきが、美しい詩になっています。
 絵のなかの少女が、魔法使いになったのでしょうか、いくつかは、おまじないのことばとなって、私の生活にも浸透してしまいました。


   おおきな あし

わたしの あたらしい くつは
とっても おおきい
あるいてちょうだいって
せかいじゅうが まってるの
 新しい靴を買うたびにこの詩をおもいだします。この靴をはいて、私を待っているところに行かなくちゃって。いろんな街々、いろんな国々、いろんな海や山へ。


   よる

あたりは くらいし もう ねむるじかん
だれど もうちょっと まどのそばに いよう
となりの ねこが
そとへ でていく

かぜのおとが きこえる
きが ゆらゆら ゆれて
やねを トントン たたいている
「きみも そとへ おいでよ」って

だけど でては いけないの
おそいし
あたりは まっくらだし
とおりは しおんとしている

となりの ねこが
かえってきた
カーテンを しめよう
よるが はじまるように
 カーテンも雨戸も閉めた、ネコは眠った、パジャマに着替えた、歯を磨いた、布団をかけて、スタンドの灯を消そう、さぁ、これから夜がはじまるぞ、って思って目をつぶります。安心して眠りにつけます。


 
   ゆめ

よる まだ おそくならないうちに
ねどこが あたたかくなってきたころに
ゆめを みるの
なにをしても いい ゆめ
なんでも できちゃう ゆめ
なんでも もっている ゆめ
でも
なきたい きもち
さみしい きもちだけは
もっていきたくないの
 ほんとにそう思います。こどもも大人も、だれでもみんな、いい夢をみれますように。