『夜の谷を行く』

人生は続く…

寝しなに本棚の古い文藝春秋を手に取って、パラパラとめくり、連載「夜の谷を行く」を読みはじめたら、はまった。この続きを読みたいと思った。もう単行本になっているはずだ。調べたら地元図書館にありすぐに借りに行った。寝るのも忘れて明け方まで読みふけってしまった。

1970年代の連合赤軍事件の事実に基づいたフィクション小説とある。
私がこどもの頃起きたこの事件の衝撃は、すごいものだった。残酷きわまりなく、社会に、学生運動に対する怒りと虚しさが残った。

事件の後、裁判が行われ罪状が決まり、事件は一件落着し、しだいに記憶から遠ざかっていった。しかし、終りはない。罪を犯した学生たちの人生は続くのである。刑期を終えたあとは社会にでて生きていかなければならない。
この人たちは、どんな人生を歩んでいるのだろうか。どんな生活をして、どんな老人になっているのだろうかと素朴な疑問があった。

時々、学生運動で逮捕された人が、社会に復帰し、選挙に立候補したとか会社を経営してるとか、某団体の理事をしているとか耳にすることはあった。その事実だけをきくと、正直ひっかかるものを感じていたが。それはみな男性ばかりで、女性は「永田洋子」以外はきかなかった。

この小説は、刑期を終えた後の女性を描いている。自分の過去を隠し、目立たぬようにひっそりとくらしている。もう60歳を越え、人生の終わりの入り口にいる。
身内が負った深い傷の深刻さは、西田啓子とその妹の会話ににじみでている。
理想を掲げた学生運動の成れの果ては、「孤独」。40年以上も経って、ひしひしと押し寄せる孤独、葛藤の虚しさが伝わってくる。

そんななかで、当時、報道にはでなかったもう一つの目的が明かにされる。そしてもう一つの事実が…。最後の古市の一言は感動的だった。この小説の中での唯一の光、強い光を放っている。最後のページは何度読んでもいい。このページの感動を忘れたくないと思った。
描写が素晴らしい。桐野夏生さんってすごいと、私の中で絶賛。

古市の「腑に落ちる」とい言葉が印象に残った。人は、腑に落ちないと苦しむが、腑に落ちれば、どんな人生をも受けいることもできるのではないだろうか。

 『一本の葦にはあれど』

35年を経て出会いました

この本を地元の図書館で検索して、見つかったときはうれしかった。閉架図書となっていたので、職員から手渡されました。
出版は1981年。そのころの私の勤め先が、著者の加藤勝彦さんとご縁があって、この本を贈っていただきました。その時、手に取ったのが初めての出会いです。脳性小児まひという加藤さんのご自身のことを小説に書かれた本だということ、主人公とおかあさんの描写は心に残っているものの、内容はまったく抜け落ちていました。ただ、重みはずっしりと感じていました。

あれから30年以上も経って、ふとこの本を読んでみたくなり探しました。ずしりと感じた重みを確かめたくなったのです。
すでに絶版になっていました。だいぶ前に、仕事先でいただいていた加藤さんからの年賀状が途切れ、亡くなられたことは知っていました。青いインクで、力強く書かれた字を覚えています。意思の強さを感じさせる字でした。

読むのに時間がかかりました。借り出しを2回延長しました。主人公(著者)の時間の流れはゆっくりで、息遣いが伝わり、それを飲みこむように読みました。

脳性小児麻痺の主人公の木原有一は、個人経営の心身障害児の施設にやっと職員として採用され、5人の障害児を受け持っていました。その子どもたちを、同じ障害をもつからこそ深く理解し、その眼差しは温かくかれらによりそうものでした。ひとりひとりの障害にむきあって、毎日少しずつ訓練を積み重ね、その子の世界を広げていこうとしました。一歩歩くこと、寝ている体を起こすこと、これができていくことは、どれほど世界が大きく開くことになるのか。

不自由な体を目一杯使って、仕事に向き合う木原に、過酷な勤務と職場や社会での無理解、理不尽な差別が容赦なく彼を傷つけます。園長でさえ「障害者のくせに」ということばを投げつけます。
失望や怒りを超えて、木原は、「障害者」ということばに慣らされている自分に、甘えがなかったかと自問します。

組合をめぐっての園長と職員たちとの争いのなかで、木原と園長の対決は圧巻でした。結局は、園長の前に土下座して、学園においてくれるように頼みこむのです。自尊心も恥辱も怒りもすべて抑えて…。働くために。
一本の葦の姿が浮びます。沼地に根をはって、立っている葦、風が吹くとすぐひょろひょろと揺れるが決して折れない葦。
木原は、権力の前にひれ伏しますが、負けたのではありません。働きたいという自分の大きな目的を貫いたのです。木原の働きたいという叫びは、人間らしく生きたいという叫びそのものです。強者と弱者の関係が否応なく浮かびますが、本当の強さとはなんだと突き付けられます。
木原が受け持ちの子どもたちと過ごす時間は、彼の唯一の居場所でした。荒く波立った心が和らぎ、傷ついた心が癒されていくのでした。この場所がなんと輝いてまぶしくうつることか。心が洗われていくようです。

本というものには、出会いがあって、本はそのときをじっと待っていてくれる。だからこの本はなくならないで欲しい。後世まで残り続けることを願ってやみません。本当の力を与えてくれる本だからです。

  『雪男は向こうからやって来た』

雪男とどういう遭遇をしたのだろうか…

このタイトルからすると、角幡さんは、雪男の存在を肯定しているように思います。しかし、本当に遭遇したらこういうタイトルにはならなかったと思います。ではどんな遭遇をしたのだろうか、それと、そもそも角幡さんと雪男がどうも結びつかない、このへんのところから本の世界に入っていきました。

読み終わり、なるほどさすがだなと感心してしまいました。とてもおもしろかったです。
角幡さんの徹底した取材の積み重ねと現場での体験が浮かび上がってきました。取材した人達の数の多さとその方たちのことば、キャラバン隊で参加した後の単独捜査、その中心にあったのはひとえに雪男です。

雪男の魔力に取りつかれた人たちの熱い世界。雪男に遭遇してしまった人たちのなかには、後戻りができなくなり、その後の人生がガラリと変わってしまった人たちがいる。雪男は向こうからやってきた、というとらえかたに妙に感心しました。そして鈴木紀夫さんの話は興味深かったです。

鈴木紀夫さんという人間を思うと、ルバング島の小野田さんも雪男も、高橋隊長もみな向こうからやってきたといえるのかもしれません。あるシェルパの「雪男に会う人と会わない人がいる」とのことばも心に残ります。この本は、鈴木紀夫さんへの鎮魂歌でもあるような気がしました。

角幡さんの文章はとても読みやすく好きです。文才がある方ですね。今まで数冊読みましたが、どれも生き生きと情景が浮び説得力があります。ご本人が度々言っているように、自分が論理的なものの考えたかをする質の人間だと、それも理由のひとつだと思いました。

次は、『漂流』を読んでみたいと思います。

 『スクラップ・アンド・ビルド』

感情の動きがリアルに描かれストレートに響く

芥川賞作家の受賞作品です。
タイトルの「スクラップ・アンド・ビルド」からして、どんな古い概念が壊れ、どんな新しい概念が生まれるのかと思いながら読み始めました。
若者と高齢者の話なので、高齢に向かっていく自分にとって、何か勇気や希望をもらえるかもしれないとも期待しました。しかし当然、小説はそんな直線的なものではありませんでした。

「じいちゃんなんか、早う死んだらよか」と毎日口ぐせのようにいう祖父。これに、孫の健斗は、祖父の尊厳死を叶えてあげようと思い実行します。しかし、健斗は祖父の冷凍ピザの奇怪行動やお風呂で溺れそうになった事件から「祖父は生きたいのだ」と確信します。多分に、「死にたい」と発することばは、重いどおりに動けない自分に歯がゆい気持ちと、周りに迷惑かけて申し訳ないと思う気持ちが入り混じったことばなのだと思います。生きている限り、人は深層では生きたいと願うものではないかと思います。
健斗のビルド(再生)に、祖父の存在は、力をかしたともいえます。

自分も、小説のなかの娘と同じように、高齢だった母と亡くなるまでの4年間同居しました。その頃の母と健斗の祖父とが重なりました。今思うと、多くの後悔はあるものの、いろんな意味で自分を広げられた時期だったと思います。死を前にした母の存在の力は大きかったです。建て前と本音のぶつかり合い、自分のなかでもスクラップ・アンド・ビルドがあったと言えるかもしれません。

登場人物の感情の動きがリアルで、ストレートに胸に迫り、余韻を残す小説でした。主人公の健斗と若い作家の視点が新鮮でした。今までにないものを受け取りました。

「ホテルローヤル」 

作家の優しい眼差し

 「ホテルローヤル」は直木賞受賞の話題作で、読んでみようと、図書館で借りようとしたら、なんとすごい数の予約待ちでした。では、順番を待つ間、この作家の他の本を読んでみようと思い、何冊か読みました。いずれも、読みやすく引き込まれました。読んだ本の全部が、北海道の道南、釧路が主な舞台でした。この最果ての地に住む人にも、流れついた人にも、共通の匂いのようなものを感じました。それは、北の大地の匂いとこの桜木紫乃という作家の眼差しなのかもしれません。
 そもそもこの作家の本を読んでみようと思ったのは、雑誌などでみた良妻賢母のような柔和な顔と、ラブホテルというギャップに興味をもったのが始まりでした。

 結局は、中古の文庫本に出会い購入して読みました。
今まで読んだ著者の何冊かの本以上には、新鮮ではありませんでしたが、面白い作品でした。まず、現代から過去にさかのぼって語られているのは、ホテルローヤルというラブホテルの歴史で、それが解き明かされていくような展開です。前回では端役だった人が、今回は主役になっているという描き方は、どの人も人生の主役なんだ、自分のストーリーをもつということを改めて感じさせます。

「星を見ていた」の山田ミコは忘れがたい人物です。他の本にも、このような健気に生きる女性が登場しました。「凍原」では、留萌に引き上げた鈴木克子、「蛇行する月」では、駆け落ちした順子、傍からみて不幸な女性が、ひたむきに生きていく姿は星のように美しく強く光っています。こういう女性への著者の眼差しは、素晴らしいと思いました。

 桜木紫乃氏が受賞したのは芥川賞ではなく直木賞だったけと、純文学を感じさせるものがあるので途中から前者だと思っていました。

この本で、冬の間どっぷりはまった桜木紫乃ワールドは、いったん終わりにします。快くも冬の重い疲れと哀愁から離れます。いい冬の夜を過ごしました。もう春の足音が聞こえ、新しい季節がやってきます。

   『凍原』

背筋がゾクゾクしました

桜木紫乃さんのミステリーです。
釧路の湿原で男性の他殺死体が見つかりました。被害者はカラーコンタクトをしていました。その下には青い目……。
犯人はだれか。なぜ殺されなければならなかったのか。青い目が物語るのは…。

私は、すぐにのめり込み、寝不足も恐れず読みふけりました。絶えず胸をゾクゾクさせながら。
しかし、読む進むうち、いつのまにかゾクゾクするのが胸より背筋になったのです。背筋にゾクッとする怖さを感じました。

それは、戦争という悲劇の時代に翻弄された人の姿が、リアルに伝わってきたからです。

釧路、樺太、留萌、小樽、室蘭…と真相を求めての捜査は、北海道に流れ着いた人たちの過去が浮かび上がる、言い換えれば蓋をした過去を暴くことでもありました。

どの人も敗戦の激動の時代を必死でひたすら生き抜いてきました。過去と現在がつながり、事件は解決します。後に残ったのは癒されることのない哀しみです。
ミステリーとはいえ、大きな人間ドラマです。手ごたえがありました。

樺太から引き上げ留萌にたどりつき、懸命に生きた鈴木克子やその従妹のつや子が愛おしいです。
それぞれの無垢でひたむきな横顔が見えるようです。
著者の力量に感服でした。

「蛇行する月」

女友達が恋しくなりました

 桜木紫乃さんの本は、冬の寝床で読むのにぴったりの本です。
この冬は、風が強く、雲が吹き飛ばされた夜空に、月がそっと浮かんでいました。
夜毎、月は欠けていき、眉月になりました。細くなるにつれて月の光が強く感じたのは、この本のせいでしょうか。

 道東の高校時代の図書部だった女友達のそれぞれの話です。
道東とは、その名のとおり北海道の東ですが、改めて地図を見てみました。
紋別、十勝、釧路、根室地方を指し、北海道のなかでは広い面積を占めるものの、人口は少ないようです。
地図を見ていると、登場する一人一人の顔が立ち上がってきました。

「だれでも、その人の一生は小説になる」と、だれかから聞いたことばを思い出していました。
生きるということは、ドラマをつくること。そしてだれもが小説になるということ。生きるということは、、蛇行しながら広い世界に向かっている、本当にそうだなと思いました。

 読みながら、自分の学生時代やかつての職場の女友達が浮かんできました。
久しぶりに会えば、すぐ昔の友達同士に戻り、お互いの近況を話したり聞いたりします。そんなとき、大きなドラマがさらっとでてきて、びっくりして相手の顔をあらためて見てしまうことがあります。「…大変だったねぇ…」「そうだったんだ…」と。
どの人も人生のドラマの主人公なんだと思わずにいられません。小説にならない人はいないということです。

 登場する人たちが、身近の人に思われ、身にしみました。
前回の本もそうでしたが、構成が巧く、人物に奥行が感じられてよかったです。

 潮風のおくりもの 掛川恭子訳

ことばって、意味がわからなくても音でつたわるものがある

 やさしいまなざしにあふれた本です。島の最後の避暑客が去るとき、埠頭では、アコーディオン、バイオリン、サキソフォン、パグパイプを演奏して見送ります。
ある夏が終わり、潮風のおくりもののように、ラーキンの家に赤ちゃんのソフィーがやってきます。 
 
 おとうさん、おかあさん、おばあちゃん、ラーキンはそれぞれがせいいっぱい、ソフィーに愛情を注ぎます。

 島には静けさが戻り、秋のむこうに長い冬がやってきます。
変化のない孤独な島の冬。

おとうさんは、タップをおどり、
おかあさんは、絵をかきます。
少女は、この冬、ことばにであいます…。

  「ソフィーにはわからないよ。」
   ラーキンはいいました。

  「かわらなくてもいいのよ。
   ことばがもっている音がすきなんだから。」
   バードおばあちゃんがいいました。

  「ことばには命があるということを、しっていたかい?ことばには小さな祈りがあって、きえるまえに、音とおなじくらいのスピードで、空中をつたわっていく。小石を池のまんなかめがけてなげると、波紋がひろがるみたいに。」


 それから、少女は、孤独のなかで詩にであいます。

  「詩には、この世のなかのあらゆるものがつめこまれています。わたしがしなくてはならないのは、よく見て、よく耳をすますことです。読んでいるあいだじゅうずっと」


 ことばのひびき、風、雲のながれ、空のかがやき、音楽、木々のゆらめき、まなざし、「愛された思いで」は、残ります。はるか未来までずっと。命をつくるものなのかもしれません。

かたわらの愛猫にも、やさしいことばで語りかけたくなりました。
ことば、大切にしたいと思いました。
図書館で借りた本ですが、持っていたいと思い購入しました。

 『私の好きな孤独』

必要なときに語りかけてくれます

長田さんの本はいつも手の届くところに置いてあります。
今朝、ふと手に取りました。ランダムに開いて、読みました。

今日は、「伯父さん」というページでした。

長田さんの伯父さんのお話です。
たくさんの「ちょっとしたこと」を伯父さんは、長田さんにおしえ、長田さんは、それを注意深く覚えてゆくことの大事さを知った、とあります。

そのなかで忘れたくないことに、一人でコーヒー屋にはいって一杯のコーヒーを飲む時間を一日にもたねばならないということ、といっています。

感じるものがありました。

一人で喫茶店にはいり珈琲を飲むという時間が、ここしばらく無くなっていました。この時間が自分にとっていい時間だったのに。

移り住んで気軽に入れる喫茶店がなくなった、というのが理由でしたが…、いや、まてよ、あの珈琲店があるではないか、と気づきました。

けやきの木とかつらの木に囲まれた、笑顔で丁寧に豆を挽いていれてくれる喫茶店。「伯父さん」のように自転車で行ける距離。

こんなちょっとしたことも埋もれてしまっていたのだなと、ここ数年を振りかえりました。

この「伯父さん」は前にも何度か読みましたが、今回は初めて読んだ新鮮さがありました。

『星々たち』

哀しい星々の物語に浸りました

 
 9つの短編が収められていて、1つ1つが独立していますが、全体を通して、塚本千春の13歳から40半ばまでの半生が描かれています。その前後に母咲子、娘やや子が描かれていますので女三代記ともいえます。そしてこの3人と関りのある人々の人生をも浮き彫りにしています。

 外ではオリオン座がくっきりと輝く真冬の夜に読みました。

哀しい物語です。情景やこころの動きが伝わって、切なくなります。それが最後の「やや子」の前まで通奏低音のように流れていました。「やや子」ではその調べは消えました。平成への時代の変化もあるのかもしれません。代々続く魂の放浪は終わるのでしょうか。

 薄幸の星の下に生まれた塚本千春ですが、本人はそう思っていません。周囲との比較などとは無関係に、ただただ自分の星を受け入れて生きてきました。

 やや子もそうです。自分の来し方をとらえたことばがいくつかでてきます。
「もともと自分は、名字で家柄や縦横の繋がりを測る生活をしてこなかった」
「始まりも終わりにも、過剰な期待をしない。する習慣がない。肉親との縁が薄いとは、そういうことだ。誰のせいでもない」
 
それでも、いつも冷めているやや子に、ある出会いがあり、明るい兆しが感じられてうれしくなりました。

  図書館司書のやや子は、元編集者が書いた小説「星々たち」に、それが自分の母親の半生だとは知らず思いをはせるのでした。

   「星がどれも等しく、それぞれの場所で光る。
    いくつかは流れ、そしていくつかは消えていく。
    消えた星にも、輝き続けた日々がある。  
    誰も彼も、命ある星だった、
    夜空に瞬く、名もない星々だったー」

 冬の夜空の星一つ一つが強い光を放っているように見えました。
そして、心憎いほどかっこいい構成です。
また桜木紫乃さんの本を読んでみたいと思いました。桜木紫乃ワールドにはまったようです。